万 葉 の 会 ・ 月 例 歩 き 録 | |
例会日 | 2007年04月05日(木) 晴れ |
行 先 | 山辺の道…柳本から桜井(1) 【第1部/柳本から桧原神社まで】 |
ルート | 柳本・黒塚展示館-崇神天皇稜-櫛山古墳/万葉歌碑(1)-景行天皇稜/万葉歌碑(2)-穴師・相撲神社/万葉歌碑(3)-穴師坐兵主神社/万葉歌碑(4)-車谷/万葉歌碑(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)-桧原神社/昼食-井寺池周辺/万葉歌碑(12)(13)(14)(15)(16)-桧原神社/万葉歌碑(17)-山清水/万葉歌碑(18)-玄賓庵-神武天皇聖蹟碑/万葉歌碑(19)(20)(21)-狭井川-狭井神社-大神神社/万葉歌碑(22)(23)(24)-平等寺/万葉歌碑(25)-志貴御縣坐神社/万葉歌碑(26)-金屋の石仏-海石榴市/万葉歌碑(27)-金屋河川敷公園/万葉歌碑(28)-仏教伝来地碑/万葉歌碑(29)-磯城嶋公園/万葉歌碑(30)(31) |
(今回の歩き録は、写真がたくさんありますので、第1部と第2部に分けて掲載しています) | |
【第2部/桧原・井寺池から金屋・磯城嶋公園まで】へ→ |
【第1部/柳本から桧原神社まで】 新年度最初の学習ツアーは、『山辺の道』。私・水無月生の大好きなコースの一つ。また、子供の頃からのなじみの多いとこでです。柳本は、ホームページ「シニア青年・水無月生」の『古代史を歩く・柳本周辺』にも掲載していますので、そちらの方もご覧ください。 当日朝、幸運なことに快晴。桔梗が丘駅8:30集合。今回からは団体乗車券の購入はなく、各自で買っての乗車になった。いままでは、班長の方が人員点呼をして乗車券を買ってという手間をかけていただきましたが、会計担当の方の負担を少しでも少なくするというやり方に変更になったためでした。本日の参加者は43名でした。 |
(JR桜井駅で 新年度学習開始 に関しての説明) |
||||
8:41発の電車に乗車、桜井へは9:15着。JR桜井線に乗換は、20分ほどの待ちなので、ここで新年度の学習開始にあった手のサークルの取組み等の説明、班長紹介、新入会員紹介等をしてもらった。 9:38発、柳本へは9:46着。駅前広場で、当日の行程説明を受けて、いよいよ出発。今回の学習はいままでの学習会とはチョット異なって、桁違いにたくさんの「万葉歌碑」のオンパレードというべきコースになる。総数、31個の歌碑を見て詠ってということになった。 まず最初は、昔ながらの家々が並ぶ古い町並みを歩いて『黒塚古墳』と『黒塚展示館』へ向かった。 【黒塚古墳】全長132mの前方後円墳。 1998年「三角縁神獣鏡33面・画文帯神獣鏡1面」、刀剣類他多くの副葬品が出土。 |
(柳本駅前で当日の行程説明) |
||||
(黒塚古墳) |
(復元された黒塚古墳の石室) |
(黒塚で5・6班の方たち) |
|||
黒塚展示館で30分ほど展示物の見学をした後、東の向かって300mほど歩くとそこには大きな前方後円墳の『崇神天皇稜』についた。御陵さんの周りは高い堤が築かれているので、全長242mの墳丘はそれ以上に大きく見え荘厳さに圧倒される。しかし、この堤は江戸時代に灌漑用に築かれたもので、当時のものでないとのこと。また、御陵さんには、この天皇の時代頃までは天皇の死に殉じて生きたまま埋葬された人の2つの陪塚がある。その後の時代からはこのような殉死はなくなったと説明してもらった。 御陵さんをお参りして、大きな墳丘の南側を東の方に歩いて、櫛山古墳の横にでた。今日の最初の『万葉歌碑(1)』に到着。全員揃って朗詠。 |
|||||
《万葉歌碑(1)》 玉かぎる 夕さり来れば猟人(さつひと)の 弓月が嶽に たなびく (作者/未詳) |
|||||
櫛山古墳の南側から『景行天皇稜』にかけての山間から眺める大和平野の景色は最高にでした。また、山辺の道は春爛漫、いろんな花が咲き誇っています。以下、ところどころでシャッターを切った花の写真を挿入していきますので、一緒に楽しんでください。 | |||||
(大和三山/畝傍山・耳成山) |
(大和平野の向うの二上山) |
(満開の桜の下を歩く) |
|||
渋谷の村落の中の狭い道を抜け、大和平野を見下ろしながら、二上山を眺め、大和三山の美しい姿を楽しみながら満開の桜の花の下を歩いて、『景行天皇稜』東側を通り過ぎていくこと約20分。2つ目の『万葉歌碑(2)』に到着。 ここから眺める三輪山は美しい姿を見ることができる北の端に当たる。ここより北に進むとこのような美しさは眺めることが出来ないので、しっかりとカメラに収めた。三輪山を眺めながら、額田王の美しい歌をみんなで詠うと三輪山の美しさがより印象深い。 |
|||||
(額田王の歌碑から三輪山に向かって歩く) | |||||
《万葉歌碑(2)》 うま酒三輪の山 青によし 奈良の山の山の間に い隠(かく)るまで道のくま いさかるまでに つばらにも 見つつ行かむをしばしばも 見さけむ山を心なく 雲の隠(かく)さべしや 〔反歌〕 三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや (作者/額田王) (筆者/中河興一) |
|||||
額田王の歌碑から三輪山に向かって歩くこと10数分で『景行天皇纒向日代宮伝承地碑』に着いた。碑の前での説明の間に周りを見ると、田んぼのあぜ道には日本タンポポがいっぱい咲いている。最近は茎の長い西洋タンポポを見るのが多くなったが、ここに居るのは日本のタンポポだよと精一杯主張しているように咲いていた。 | |||||
この場所から大和平野は一望できて右下方には景行陵が大きく横たわっている。そのかなたには生駒山も目に入ってくる。まさに日代の宮にふさわしい地と当時の情景を思い浮かべた。 【730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケノミコト)がこの地に宮を設けた。日本武尊(倭建命)は天皇を助け大和朝廷の全国統一を進めて大功労者】 |
|||||
(あぜ道の日本タンポポ) (景行天皇纒向日代宮跡碑) (日代宮跡からの大和平野/右は景行天皇稜・その向うが生駒山) | |||||
「纒向日代宮跡」のすぐ東は相撲の始まりの神社『相撲神社』にある『万葉歌碑(3)』 【相撲神社】2000年前の垂仁天皇の時代に大兵主神社域内のカタヤケシにおいて野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹶速(タイマノケハヤ)による天覧相撲が催された。これがわが国、国技相撲の始まりといわれている。 《万葉歌碑(3)》 纒向之 桧原もいまだ雲ゐねば 小松が末(うれ)ゆ 沫雪(あわゆき)流る (作者/柿本人麻呂) (筆者/山本健吉) |
|||||
相撲神社から更に東へ上って行くと『穴師坐大兵主神社(あなしのおわすだいひょうず)』境内の『万葉歌碑(4)』 《万葉歌碑(4)》 あまぐもに ちかくひかりてなるかみの みねばかしこし みねばかなしも (作者/未詳) (筆者/会津八一) |
|||||
穴師坐大兵主神社からもと来た道を纒向日代宮跡まで戻り、道を南にとって車谷に向かうと、道沿いの田んぼに菜の花があちこちいたるところに見ることができる。穏やかな農村風景の中の菜の花を楽しみながら歩くと、真新しい『山邊道』と書かれた道標がある。ここから金屋までに3つあると聞いた、そのひとつがこの道標。 道標から2分で『万葉歌碑(5)』に、そしてすぐ西へ2分で『万葉歌碑(6)』着く。これより車谷から桧原神社までは万葉歌碑が群がっている。忙しいことだ。 |
|||||
《万葉歌碑(5)》 ぬばたまの 夜さり来れば巻向の 川音高しも あらしかも疾(と)き (作者/柿本人麻呂) (筆者/武者小路実篤) 《万葉歌碑(6)》 三諸のその山なみに 児らが手を 巻向山は 継ぎのよろしも (作者/柿本人麻呂) (筆者/佐藤佐太郎) |
|||||
穴師から車谷にかけてのこのあたりは「穴師山」と「三輪山」がよく見える。その緑の美しさと姿の良さに、チョット歩をとめて見とれてしまった。 | |||||
(穴師山/穴師から車谷にかけての道より) |
(三輪山/穴師から車谷にかけての道より) |
||||
次は『車谷』にある柿本人麻呂の4つの万葉歌碑、『万葉歌碑(7)』、『万葉歌碑(8)』、『万葉歌碑(9)』、『万葉歌碑(10)』をまとめてご覧ください。 | |||||
《万葉歌碑(7)》 足引きの 山かも高き巻向の 岸の小松に み雪降りけり (作者/柿本人麻呂) (筆者/岡 潔) |
《万葉歌碑(8)》 あしひきの 山川の瀬の響(な)るなべに 弓月(ゆつき)が嶽(たけ)に 雲立ち渡る (作者/柿本人麻呂) (筆者/鹿児島寿蔵) |
||||
《万葉歌碑(9)》 痛足(あなし)川 川波立ちぬ巻目の 由槻(ゆつき)が嶽(たけ)に 雲居立てるらし (作者/柿本人麻呂) (筆者/棟方志功) |
《万葉歌碑(10)》 巻向の 山邊響(とよ)みて行く水の みなあわの如し 世の人吾は (作者/柿本人麻呂) (筆者/市原豊太) |
||||
車谷の道筋はのどかそのもの。万葉の会の皆さんもゆっくりとした気持ちで景色を味わいながらウオーキングを楽しんでおられる。紅白の花が1本の桃の木に咲いているのを見つけ、立ち止まって見ていると誰かがこれは「源平咲き」といいます、と教えてくれた。なるほど、紅白ゆえそういうことかと感心した次第。 | |||||
(田んぼは黄色と緑のコントラスト) |
(道端のアスファルトの隙間から 元気に咲いている花) |
(源平咲き) |
|||
(車谷の桜は満開) |
(車谷から桧原神社への林間道を歩く) |
||||
桧原神社へ向かう林間道では『万葉歌碑(11)』を詠う 《万葉歌碑(11)》 神山(みわやま)の 山邊真蘇木綿(やまべまそゆふ)みじか木綿(ゆふ) かくのみ故に 長くと思ひき (作者/高市皇子) (筆者/入江泰吉) |
|||||
(鳥居を通して桧原神社を見る) |
(鳥居の向うの二上山) |
『桧原神社』で昼食。時刻は11:50。食事時間は30分とのことなので、あわただしい昼食を済ませて、神社の鳥居の向うに見える二上山の美しい姿を撮影した。 午前中の“歩き録”はここまでです。【桧原神社】 元伊勢といわれている。崇神天皇の皇女「豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)」をお祀りしている(初代の斎王) |
|||
以上、ここまでが“山辺の道…柳本から桜井” 【第1部/柳本から桧原神社まで】です。 この続きは【第2部/桧原・井寺池から金屋・朝倉まで】をご覧ください。 |
|||||
【第2部/桧原・井寺池から金屋・磯城嶋公園まで】へ→ |