高野山(伽藍・金剛峯寺)  (2006.05.30)

和歌山で一泊した翌日、高野山にお参りした。行ってみてその荘厳さ、壮大さに圧倒されました
一日では見つくせない観賞すべき文化財の数々。もう一度ゆっくりと訪ねたいと思っています
【伽藍・金剛峯寺】 奥の院


           (金堂)
『金堂』は、お大師様が講堂として伽藍の中で最も早く9世紀頃に建てられた建物。落雷などで6度焼失。1925年の大火で御本尊をはじめ多くの国宝佛が焼失。現在の建物は1934年7度目の建立のもの
『根本大塔』は弘法大師が高野山開創後、この大塔を真言密教の根本的教義の象徴として建立、大師の死後887年完成。その後、落雷等により5度焼失、現在の大塔は1937年再建。塔は高さ48.5m、四方24mの壮大なもの

(根本大塔)

(大塔の鐘)
【高野山について】
高野山は海抜820mの山上にある。弘仁7年(816年)に弘法大師は真言密教の根本道場の地として朝廷より賜り、多数の弟子と共に開創に着手され、これが高野山金剛峯寺の始めといわれている。開創以来20年後、造営工事は続いていたが、大師は62歳で入定され、即身成仏をとげられました。その後は高弟真然大徳が大師意思を受けて伽藍の造営を進め、仏教各派の修禅の大道場が確立しました
現在、伽藍と奥の院の両壇を中核に総本山のほか、117ヶ寺があり神秘な霊場を形作っている
(対面櫻)
(不動堂)
(西行櫻)
『大塔の鐘』(高野四郎) 弘法大師が鋳造を発願し、真然大徳にて完成。火災で3度焼失、現在の鐘は1547年建立
『対面櫻』 大塔が二度目の火災に遭って、再建奉行に平清盛があたった。造修完了後、櫻の前に弘法大師が現れて、清盛の功を讃えられた。以来、清盛は益々随喜崇敬の念を深めたといいます
『不動堂』 鳥羽院皇女八条女院の発願により1189年建立。桁行43尺、梁間35尺の平安朝住宅様式の堂宇
『西行櫻』 西行法師が修行した折の西行手植えの櫻と伝えられる

(多宝塔)
1223年北条政子が源頼朝と我が子源実朝の
菩薩を弔うために建立

(蛇腹道)
金剛峯寺から伽藍に通じる道
弘法大師と龍に関する伝説がある
【金剛峯寺】(こんごうぶじ)
高野山の本坊。山内の多くの寺院と全国の高野山真言宗諸寺の総本山。主殿は、東西30間、南北35間で屋根は桧皮(ひわだ)ぶきの大建築、境内面積48,295坪

(金剛峯寺・表参道)

(金剛峯寺・正殿)

(屋根の上の防火用水桶)

(正殿・玄関)

(正殿・玄関)

(高野杉の断面)
高さ 57m、直径 2.87m、株元周囲 9m、樹齢不明 
 

(大広間)
本山の大切な儀式の間。襖の松と群鶴の絵は
狩野法眼元信(1476-1559)の筆

(梅の間)
襖は梅月流水の絵。筆者:狩野探幽(1602-1674)
  

(柳の間)
襖は四季の柳の絵。筆者:狩野探斎
関白豊臣秀次が自刃の間(1595年7月15日)
(別殿への渡り廊下と石庭)


『蟠龍庭』(ばんりゅうてい)
奥殿を中心に500坪余の我が国最大の石庭。雲海の中に雄雌の二頭の龍が奥殿を守って取り囲むように配されている
全面に京の白川砂を敷き、画かれた「青海波大雲海」を表わしているらしい。組まれた石は、大師の練行聖地四国の霊石
     《正面の門は「勅使門」》
(蟠龍庭・ばんりゅうてい
(新別殿の大広間)
拝観の途中、ここでちょっと休憩
お茶と干菓子をいただきました


(楓の間/左面

(楓の間/右面
『第四室・楓』
高野の秋はことに美しく、千古の霧を含んだ老杉の間をいろどる楓の紅葉黄葉は玉川の渓流に錦を散らし、これまた蜜厳曼荼羅の世界に人々をさそう
木の間がくれに山鳩のホロホロと鳴くをきけば、南無大師遍照金剛を唱えつつ御山を訪れる人々には懐かしい父母の呼び声ともきこえてくる
… (案内板より)

(上壇の間)
昔、天皇・上皇の応接間に当てられたところ
壁は総金箔押し、天井は折上式格子天井の書院造

(奥書院)
皇族方の休息所
襖の絵は雪舟と他2名に筆
(真然大徳廟・しんぜんだいとくびょう)
弘法大師の甥
高野山第二世として大師の後を受けて56年間に亘って高野山のの経営に従事

1988年11月真然大徳の舎利器が出土し、ここが真然廟と判明した




(かまど二石釜)…下の写真
右の釜は一個で、7斗(98kg)のご飯を炊ける
三つの釜で一度に、2石(280kg)、2000人分がつくれる
   奥の院