万 葉 の 会・月 例 歩 き 録 | |
例会日 | 2008年05月01日(木) くもり |
行 先 | 畝傍の道(その1) |
ルート | 宗我坐宗我都比古神社-天高市神社-《横大路》-天太玉神社-河俣神社/万葉歌碑-畝傍山口神社/万葉歌碑-《昼食》-安寧天皇陵-懿徳天皇陵-《深田池/橿原神宮の森》-神武天皇陵-綏靖天皇陵-大窪寺/櫻児・万葉歌碑 |
【畝傍の道(その1)】 2008.05.01(木)連休の谷間の平日、天候は初夏の暑さがしのげる花曇り。桔梗が丘駅8:41乗車、真菅駅9:32着。この日の学習コースは、畝傍山北側の曽我川沿いの神社と万葉歌碑、そして、畝傍山周辺の天皇陵を訪ね歩くことになる。参加者42名。 |
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(関連することとして『畝傍山』につきましては「古代史蹟を歩く/大和三山」に掲載しています) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
真菅駅より数分で、最初の学習ポイント『宗我坐宗我都比古神社(そがのますよがつひこ神社)』へ。神社周辺の曽我川流域には、このほかにもいくつかの神社が点在しており、蘇我氏が拠点としていたゆかりのであったことがうかがえる。蘇我氏滅亡後は、持統天皇が蘇我氏一門の滅亡を哀れんで、母方の祖父・蘇我倉山田石川麻呂の次男・徳永内供に紀氏を継がしてここに土地を与えたのが始まりと云われている 【宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこ神社)】 【祭神】宗我都比古大神(そがつひこ大神) 宗我都比売大神(そがつひめ大神) この神社は、入鹿の宮とも称されることもあり、推古天皇のころに蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀って神殿を蘇我村に造営したとする伝承がある |
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「宗我都比古神社」を後にして南下、曽我川に沿って少し歩き、次は『天高市神社(あめのたけち神社)』 【天高市神社(あめのたけち神社)】 祭神:事代主命(ことしろぬしの命)/えびす様 配祀:品陀別命(ほんだわけの命/応神天皇) 息長帶姫命(おきたらしひめの命/神功皇后) 比売神(ひめがみ) 中世から江戸期かけては曽我八幡社と称していた。「大和志」には、「曽我神社南、今(享保年間)入高市八幡と称する」とありと、また「天岩戸を開くべく八十萬神の会合した天高市」とも記されている。 |
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豊津橋の上から曽我川を見ると、流れはゆるやかで水は美しくない。多分、昔は美しい川だったのだろうが、流れがゆっくりのため流域の生活排水でなおさら汚れが進んだのではないかと思った。 【曽我川】:大和盆地南部を北に向かって流れる。御所市重阪の内谷を源流として、高取町で盆地に出て橿原市を貫流、その後、広陵町と田原本町の境を北上し大和川に注ぐ。全長28km (写真:豊津橋より曽我川を見る/右から手前下への流れが曽我川。左向こうより高取川が合流) |
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豊津橋より曽我川堤防沿いを10分ほど歩くと、忌部町(いんべ町)の『天太玉神社(あめのふとだま神社)』へ。忌部という町の名前が残っている通り、この神社は忌部氏の本宗社であり、忌部氏の祖『天太玉命(あめのふとだま命)』を祀っている。しかし、中臣氏との政争に敗れた忌部氏の衰亡とともに、興福寺の支配下になり江戸時代までは春日神社といわれていたとのこと。 「天太玉命」は記紀にある天照大神が天の岩戸に隠れる話の中で、八百万の神々とともに活躍していることは面白い。興味深い神であるので、少しこの神について記してみたい。私と同じように興味を覚えられた方は、どうぞご覧ください。 |
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●大宮売命(おほみやのめの命)は天太玉命の娘で、本名を天鈿女命(あめのうずめの命)/天宇受売命(あめのうずめの命)という。また、豊石窓命(とよいわどの命)、櫛石窓命(くしいわどの命)は天手力男命(あめのてじからおの命)の別名で、天太玉命の息子。後世にはこの神を皇居の四方の御門の左右の鎮護として祀られている。 【天太玉命と天の岩戸の話】…「古事記より」(古事記では『天布刀玉命(あめのひとだまの命)』 ●天照大神は弟・須佐之男命(すさのおの命)が高天原で乱暴、悪事の数々を行うことに、憂い悲しみ天の岩戸に閉じこもってしまわれた。高天原は暗闇となり、地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)は来る日も来る日も夜ばかりになってしまったため、八百万の神々が集まり対策を練ることになった。 ●常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、天安河の鉱山の鉄を取って天津麻羅(あまつまら)が鍛え、伊斯許理度売命(いしこりどめの命)が鏡を作った。そして、玉祖命(たまおやの命)はたくさんの勾玉を長い緒に貫いた八尺(やさか)の勾玉の珠を作った。次に天の香具山から榊の木を根ごと掘り取ってきて、上の枝には八尺の勾玉を飾りつけ、中の枝には八咫(やた)の鏡を掛け、下には楮(こうぞ)の白い幣(ぬき)と麻の青い幣を飾った。この榊を『天布刀玉命(あめにふとだまの命)/天太玉命』が神聖な幣として捧げ持ち、天児屋根命(あめのこやねの命)が祝詞を奏上し、天照大神が天の岩戸からお出ますように祈願した。一方、天手力男命(あめのてじからおの命)は岩戸の側に隠れて立った。 ●いよいよ本番、天宇受売命(あめのうずめの命)の登場。天の香具山の蔓(かずら)をたすきにし、まさきの葛(かずら)を髪飾り、笹の葉を手に持ち、踊り始めた。踊りが高まるにつけ激しさが増し、たくさんの神々は高天原がゆり響くばかりにどっと笑ってはやし立てた。 ●天照大神は何事かと不思議に思って「私がここに籠もっているので世の中は暗いはずなのに、どうしてみんな楽しそうに踊り楽しんでいるのだろうか」と呟いた。天宇受売命が答えて「あなた様より尊い神がおいでになるので喜び楽しく踊っているのです」と。そして、天児屋命と『天布刀玉命』が八咫の鏡を岩戸の前に差し出した。大神が岩戸を少し開けて鏡に写る外の様子をご覧になったその時、天手力男命が大神の手を取って力ずくで大神を外へ引き出された。 ●すかさず、『天布刀玉命』は注連縄を岩戸の入り口に張り、「これより内にはもうお戻りになりませぬように」と申し上げた。こうして天照大神が岩戸の外に出てこられて、高天原も葦原中国も日の光が輝く明るさとなった。 【忌部氏について】 ●忌部(いんべ)というのは、ケガレを忌み、神事などに奉仕するということで、神祇祭祀に携わる部民のことであり、忌部氏はそれを率いっていた。のちには齋部氏というようになる。初め中臣氏とともに神事を掌ったが、次第に衰退しのちには中臣氏だけが栄えていった。 ●忌部氏の祖の天太玉命には五神が従っていたが、そのうち、天日鷲命(あめのひわしの命)が阿波忌部氏、手置帆負命(ておきほおいの命)が讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりの命)が紀伊忌部氏、櫛明玉命(くしあかるたまの命)が出雲忌部氏、天目一箇命(あめのまひとつの命)が筑紫・伊勢の忌部氏となったという。 ●面白いのは織田信長は、忌部氏の末裔との説もある。織田氏は平家の出とされているが、忌部系織田氏に平重盛の流れをもつ人物が養子に入ったとみる考え方もあり、これまたひとつの興味をそそる。 |
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【河俣神社】(祭神)鴨八重事代主神(かものやえことしろぬしの神) 住吉大社から畝傍山口神社の神事での畝傍山の埴土(はにつち)を取りにくるときに、ここの社で装束を整えることになっている。そのことから装束の宮ともよばれる。 境内には「卯名手の社(うなてももり)/河俣神社」を詠った『万葉歌碑』があり、みんなで揃って万葉歌を朗詠した
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しだいに畝傍山が近づいて来る。山麓集落は奈良県指定の「歴史的風土特別保存地区」になっている。そのような標識を見ながら坂道を進むと『畝傍山口神社』の赤い鳥居が見えてきた。鳥居の少し手前に畝傍山を詠った『万葉歌碑』がある。ここでもみんな揃って朗詠。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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『畝傍山口神社』を参拝してちょうど昼時になったので、境内のあちこちにそれぞれが陣取って昼食。この神社はもともとは畝傍山山頂にあったが昭和15に橿原神宮の大拡張工事が行なわれた時に、神武天皇陵や神宮を見下ろすようなことになるのはよくないとして、山麓のこの地に遷座されている。山頂には昔あったことがわかる社殿跡が、その場所を石囲で残されている | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
(畝傍山頂にあった山口神社跡につきましては「古代史蹟を歩く/大和三山」に掲載しています) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
【畝傍山口神社(畝火山口坐神社)】
●特殊神事として埴取(はにとり)神事があり、住吉大社の祈年祭、新嘗祭に用いる土器を作るための埴土(はにつち)は畝傍山頂で採取する。(このときの使者が前記した「河俣神社」で装束を整えることにしている)古くは天香具山の土をもらっていたらしいが、後に畝傍山に代わっているらしい。 ●本来の祭神は「大山祇命(おほやまづみの命)」であつたと考えられるが、いまは末社・大山祇命神社に祀られている。大山祇命は「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」の父親で、古事記では邇邇芸命(ににぎのみこと)に、この姫と姉姫の「石長比売(いわながひめ)」を献上したという話は、これもまた面白い。 |
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昼食を終えて13:00少し前に、午後の学習ポイントへ行動を開始。畝傍山山麓に祀られている日本の初代から四代までの天皇陵を観て回った。 まず最初は『第三代・安寧(あんねい)天皇陵』、続いて『第四代・懿徳(いとく)天皇陵』。 そのあとは西参道より『橿原神宮』境内に入り『深田池』の畔で休憩を40分ほどとる。しばしの休憩の後、再び橿原神宮境内の広大な神宮の森の、ゆったりと原生林におおわれた木立の中を森林浴を味わいながらのウオーキングでした。神宮の森ではつつじがちょうど満開になっていまして、濃い緑に囲まれた中にあってひときわを赤とピンクの色が際立っていました。 神宮の森の北方向には広大な敷地の中に『初代・神武天皇陵』が。この御陵は他の御陵に比べてスケールの大きさでは圧倒するものがある。御陵の正面には鳥居が3つ直線に並び、その先に陵墓があるという厳かさである。横にある管理詰所にも宮内庁職員が常駐しているのも、他の御陵と異なる。また、敷地内には宮内庁書陵部の事務所もある。神武天皇陵を参拝の次が、その北側の『第二代・綏靖(すいぜい)天皇陵』へ。 このようにして日本の始まりに結びつく御陵に接してきたわけですが、古事記では中つ巻でこれらの天皇のことが記述されていまして、上つ巻が神代の時代の話で、中つ巻きが日本を治めた初期の天皇の話になります。初代から第九代までは歴史的な真偽のほどの議論はありますが、このような歴史遺産が存在するということは、この地域で何らかの大きな支配勢力があったことは間違いないことと思います。私たちは美しく管理と保存が行き届いている天皇陵をお参りするとともに、その時代の歴史の何らかの事実が存在したことを感じ取れたのではないかと思います。 |
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・天皇の名前:師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみの命) 【第四代・ 懿徳(いとく)天皇陵】:畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまみなみのまさごのたにのうえのみささぎ) ・天皇の名前:大倭日子鋤鋤友命(おおやまとひこすきともの命) |
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・天皇の名前:神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこの命) 【神武天皇と妃の話】(古事記より) 妃の名前:比売多々良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)。この姫の母親は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)で、父親は三輪・大神神社の祭神・大物主神(おおものぬしのかみ)。 あるとき、伊須気余理比売(いすけよりひめ)たち7人の少女が野遊びをしていた。天皇が歌で次のように呼びかけした。「倭の 高佐士野(たかさじの)を 七行く 媛女(おとめ)ども 誰おし枕(ま)かむ」 このようにして、天皇と伊須気余理比売は結ばれ3人の御子が生まれ、その中の末っ子の「神沼河耳命(かむぬなかわみみの命)」が皇位を継ぎ、第二代・綏靖(すいぜい)天皇となる。 |
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(神武天皇陵/スライド写真)…左端の写真をクリック。開いたページのボタンでスライドしてください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
神武天皇陵参道口と「畝傍山」 …あおあおと茂った畝傍山が美しく迫りくるようにそびえている 【第二代 綏靖(すいぜい)天皇陵】:桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのうえのみささぎ) ・天皇の名前:神沼河耳命(かむぬなかはみみの命)…神武天皇の第三皇子 |
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【櫻児伝説】昔一人の娘子がいて名を櫻児という。二人の男がいて、櫻児を恋しく思った。命を捨てて競い合い、死も恐れずに争った。櫻児は涙を流して言うには、昔から一人の女が二人の男に嫁ぐということは、聞いたことももない。二人の男の心は鎮めようもない。私が死んで二人の争いが収まるのが一番よいと、櫻児は林の中に入り首を吊って死んでしまった 二人の男は悲しみに堪えられず、血の涙を襟に流してそれぞれ思いを述べて詠んだ歌二首が万葉集に |
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その戻り道に『畝傍山・歴代天皇拝所』がある。ここからの畝傍山は住宅が密集しているため、山は頂上付近が少し見えるだけになっている。昭和の初めころまでは、全体が見渡せたのではないかと想像するだけになった。 畝傍御陵前を15:25乗車、桔梗が丘へは16:10頃帰着した。今月も充実した勉強会を楽しみました。ありがとうございました。 |