万 葉 の 会・月 例 歩 き 録
例会日 2007年11月01日(木) 雨
行 先 香具山の道
ルート (耳成駅)ー《中ツ道-鏡の辻》-天香具山神社/万葉歌碑-天岩戸神社-大官大寺跡-(昼食)-藤原宮跡発掘調査部《展示物見学》-泣沢神社-八釣地蔵・畝尾坐健土安神社-藤原宮大極殿跡-万葉歌碑
(耳成駅/行程説明)
【香具山の道】
 2007.11.01(木) 桔梗が丘駅8:41乗車、耳成駅9:30着。この日は雨の予報、桔梗が丘ではまだ降っていなかったが、耳成に来ると雨になっていた。そのようなことで、この日の学習コースの予定は変更になり、メインになっていた「天の香具山」登山は止めになって、香具山周辺を学習して回ることになる
 『天香具山』につきましては、このホームページ内の「古代史蹟を歩く」/「大和三山」ページでも詳しい記事がありますので、合わせてご覧ください

 【天香具山】:大和三山の一つで、多武峰から北西に延びた尾根が浸食して小丘陵として残存した山で、畝傍山、耳成山は盆地にある死火山。香具山の山頂には国常立神社(くにとこたち)があり、国常立神と竜神が祀られている。
(中ツ道の名残を歩く)
 香具山は伊予国風土記に「天から降ってきた」という伝承が残っていることより、『天の香具山』と呼ばれてきている。また、万葉集では、「天」という美称がつけられている山は香具山だけで、他の山とは異なった特別な性格を持っている

 耳成駅からの歩き始めは、『中ツ道』の名残を通っていく。民家と田んぼの間の狭い道を通りぬけ『鏡の辻』付近に来ると、雨に煙っている『大和三山』が前・右横・後ろに美しい姿を見せてくれた
(天香具山)/鏡の辻より前方 (畝傍山)/鏡の辻より右横方向 (耳成山)/鏡の辻より後方
(天香山神社) (波波迦の木)
 大和三山を眺めながら香具山に向かって歩くこと10数分で、『天香山神社』に到着。神社境内を見学して、『波波迦の木』を眺めてその横の『万葉歌碑』の歌をみんな揃って朗詠した
【天香山神社】:もとは山頂にあった。祭神は櫛真命(くしまみこと)
【波波迦の木(ははかの木):いばらの木で朱桜(にはざくら)、うわみずざくら、こんごうさくら、かはさくら、とも言われる。古事記によると、この木の皮で香具山の雄鹿の骨を焼いて吉凶を占ったとあり。平成2年に宮中の大嘗祭での亀占に、この波波迦が奉納されている

『万葉歌碑』…3歌


ひさかたの 天(あめ)の香具山
この夕霞(ゆうべかすみ)たなびく 春立つらしも
(柿本人麻呂)
春過ぎて 
夏来(きた)るらし白たえの
 衣干したり 天(あめ)の香具山
(持統天皇)
 
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 
煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
(舒明天皇)
 うまし国そ あきず島 大和の国は
(雨にかすむ畝傍山)
 …香具山西山麓より
 天香山神社より香具山の西側山麓を進むと、木立の間から雨にかすんだ「畝傍山」が再び姿を見せてくれた。更に山麓を南に回り込むと『天岩戸神社』に着いた
【天岩戸神社】:記紀に書かれてある天照大神が岩戸の隠れたとされる巨石が4つがあり、この岩穴をご神体としている。神殿はなくて拝所のみで、古代からの原始的な祭祀形態を残している。玉垣内には真竹が自生していて七本竹(女笹竹)といわれ、毎年7本ずつが生えかわると云われている

 天岩戸神社よりさらに南を進むと、中ツ道が明日香に向かって真っすぐに伸びている。香具山南麓より700mのところにの『大官大寺跡』まで歩いて、再び香具山へ向かって戻ってきた
(天の香具山)…南面/明日香の方向から見る
(中ツ道)明日香へ向かって南に/道の左右が大官大寺跡
(天岩戸石)…真竹の中に見える中央の黒っぽい岩が4つ
(天岩戸神社)
【大官大寺】:平城京の大安寺の前身の寺。高市大寺とも呼ばれた。藤原宮時代には官寺として九重塔をもつ飛鳥最大の寺院であった。平城遷都の後、和銅4年(711)焼失
大官大寺方面は予定になかったコースだったが、雨で「天香具山」登山をやめにして、予定変更でこちらへ回ることになった
(昼食)/狭くても肩を寄せ合って仲良く
 
 次の学習ポイントは『飛鳥藤原宮跡発掘調査部』資料展示館。展示館へ向かう道筋で、湯浅先生が「ここがいい」と言ったのが道路脇にあった休憩所。ちょうど昼時であったのでここが昼食休憩場所のなった。雨なので、予定していたところでは食事ができないので、このには屋根があったので「ここがいい」場所だったのだ。狭い場所をみんなそれぞれ譲り合いながらの昼食となった
 『飛鳥藤原宮跡発掘調査部』資料展示館ロビーでは、高松塚の壁画を解説したビデオが映し出されていたので、30分ほど鑑賞をして資料室を見学した
(飛鳥藤原宮跡発掘調査部) (展示室/タイムトンネル)
 
 資料室は玄関ホールからタイムトンネルをくぐり抜ける。その向こうには7世紀の藤原京が。展示資料は出土遺物や復原模型とともに、
藤原京が造られていく過程の説明が面白い。また、当時の都の上級役人と下級役人の日常生活や、食生活の模様が模型で展示されているのが興味深かった
(泣沢女の神社)
  「飛鳥藤原宮跡発掘調査部」資料展示館でゆっくりと1.5時間ほど過ごして、次はすぐ北側にある『泣沢女の神社(もり)
【泣沢女の神社(なきさわめのもり)
・正式には:畝尾都多本神社
(うねびつたもと神社)
・祭神:啼沢女命
(なきさわめのみこと)
・古事記によると、神々生成の最後に、伊邪那美命神が火の神・迦具土神
(がぐつちのかみ)を出産して焼死したとき、悲しんだ伊邪那岐命神がその遺体の枕辺にはらばい、足方にはらばい泣いた。その涙から生まれたのが泣沢女神であるという
・古来この神社の境内は泣沢の森といわれ、埴安の池畔の水神であった。そして長寿や延命の神としも仰がれてきた
 この泣沢女の神社にある『万葉歌碑』は、檜前女王(ひのくまのおおきみ)が高市皇子が生き永らえるように祈っていたが、亡くなってしまわれたので、「泣沢女の神社」を恨んで作った歌だとされている 
泣沢の神社(もり)に 神酒据え祈れども 我が大君は 高日知らしぬ
(檜前女王・ひのくまのおおきみ
 泣沢女の神社から少し北側には『畝尾坐健土安神社(うねびにますたけはにやす)『八釣山地蔵尊』が向かい合って並んでいる。このころには雨も小降りになってきた
(畝尾坐健土安神社)
【畝尾坐健土安神社(うねびにますたけはにやす)
・祭神:健土安比売命
(たけはにやすひめ) 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
・古事記では、健土安比売命は波邇夜須毘売神(はにやすひめのかみ)のことで、伊邪那美命が火の神を生んでホトを焼いてしまった。その時に苦しさの中でウンコをした糞より生まれた土の神のこと
・波邇夜須とは埴粘
(はにやす)のことで、祭具の土器を作る粘土のことで、神武天皇が大和平定のとき、天香具山の埴粘から天平瓮(あまのひらか)と厳瓮(いつへ)〔神酒をいれる瓶〕を作って神を祭りることで勝利を得、大和入りを果たした話がある

(八釣山地蔵尊)
【八釣山地蔵尊】』…浄土宗の「興福寺」
・585年廃仏派の物部守屋が飛鳥の「橘寺」を焼いた。金堂の地蔵菩薩は火を逃れて「香具山」の頂上に逃げ延びた。それで聖徳太子が香具山の山麓に寺を建て地蔵を祀ったといわれている
・このお寺には聖徳太子が夢のお告げで体顕された夢想の名灸があり、神経痛やリュウマチ等に良く効くそうです

 八釣山地蔵の境内にたたずむ地蔵さんが一体あった。赤いよだれ掛けと桃色の頭巾をかぶっている。そこまではどこでも見ることができる地蔵さんであるが、この地蔵さん紺色の帽子をかぶっている。どこのどなたが被せたのか、これから冬の向かうので寒かろうと思ってのことか。“お地蔵さんどうか風邪を召されないように…”
 八釣地蔵をあとにして、本日の最終の学習ポイント『藤原宮跡』へ。大極殿跡では現在も発掘調査がつづけられていて、この日も作業が行われていた。2007年春からの調査で「大極殿院の南門」が確認されその場所にあたる所に同じ規模の大きさで赤い模型の柱が建てられていた
(藤原京/大極殿院南門跡)
…向こうに見えるが天香具山
(大極殿院跡発掘現場で
湯浅先生から説明を聞く)
(大極殿院跡発掘現場
の説明パネル)
(大極殿跡)/茂みのところの土壇
【藤原京】
・永い間、藤原京の存在が不明であった。1943年永い眠りから覚めることになる。以来、発掘が進むにつれて藤原京全体の規模の復原と実態が次第に明らかになってきて現在に至っている
・藤原京は大和三山に囲まれたこの地に、690年(持統4)着工。694年(持統8)完成。唐の長安を模して、日本史上初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な都。しかし16年後、短い役目を終え、都は平城京へと移っていった
 藤原京大極殿跡から少し北側のところの、持統天皇がまさにこの藤原京で「天の香具山」を詠ったと思われる『万葉歌碑』前で、もう一度この歌を朗詠して本日の学習は終了とした
春過ぎて
夏来(きた)るらし白たえの
 衣干したり 天(あめ)の香具山
(持統天皇)
(持統天皇万葉歌碑) (歌碑前でみんなで朗詠)
 雨もすっかりと上がって、藤原京を後に近鉄八木駅まで約2.5kmを歩く。途中、古い町並みの残っている横大路を通って、15:00過ぎに駅に到着。皆さんお疲れさんでした