万 葉 の 会・月 例 歩 き 録
例会日 2008年09月04日(木) くもり
行 先 明石大門へ
ルート (桔梗が丘よりバス)-《R165》-《名阪国道/西名阪高速/阪神高速/第二神明》-明石城-明石文化博物館-《時の散歩道》-月照寺/万葉歌碑-柿本神社/万葉歌碑-《昼食》-(天文科学館)-両馬川旧跡-子午線標柱-魚の棚
【明石大門へ】
 2008.09.04(木) 万葉の会」9月例会は参加者54名のバスの旅、名張から兵庫県明石へ。 名張は「畿内の東の端」そして明石は「畿内の西の端」。総距離は140km、バスで2.5時間の行程。
(補助シートまで使って
・・・満員のバス車内)

 「畿内」とは、ご存知の方が多いのですが、その範囲は案外知られていない。「畿内の東の端」は名張市の名張川。大和時代には『東は名墾(名張)の横河』、『西は赤石(明石)の櫛淵』と定められました。 大昔の人がこの距離を山川を越えて歩けば3日はかかったのではないかと思いますが、それを想像しながらのバスの旅をしました。 参考として「北の端は」近江の逢坂山、「南の端」は紀伊の兄山(紀ノ川中流)になります。

 今月の例会の行先は、万葉の古代時代〜中世/近世時代〜明治/現代に至る幅広いテーマを見聞することになりました。そのようなことでルートに沿った報告ではなくて、テーマを次のように5つに分けてまとめることにしました。
(1)明石城と明石文化博物館  (2)子午線上を歩く  (3)柿本人麻呂の万葉歌を詠う
(4)明石の街中と「魚の棚」  (5)畿内西端より「大和島」へ向かう

 
(1)明石城と明石文化博物館
 名張を8:00出発、明石には10:40着。「兵庫県立明石公園」の前で下車。公園は明石城が中心になっている。城の堀端を歩いて城内に入ると二つの櫓が見える。巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)という。天守閣はなかった。石垣には刻印を施したものが見られるという。「月」「布」「二」「七」「大」や分銅や斧などの形のもの、円、四角、三角の図形等があるらしい。しかし、じっくり観察して歩いていないのでそのようなものにはお目にかかれなかった。
 城内には宮本武蔵が造ったという庭園「樹木屋敷」がある。御茶屋、築山、泉水、滝などで城主の遊興所であったらしい。また、武蔵は明石の町割りを立案し采配を行い、いまの明石のもととなる町の形態を作り出している。
(明石城の堀) (明石城)・・・巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら) (5・6班で撮影)…明石城内で
【明石城】
明石城は1617年(元和3)に信州松本より小笠原忠真が10万石で封じられたことから始まる。忠真は幕府の命により、西国の備えとして明石城を築城、天守閣は築かれなかった。その後、城主は松平、大久保、松平、本多、松平と変り延べ17代。明治維新後、4つの隅櫓のうち巽櫓と坤櫓は取り壊されずに残る。
(明石城より眺めた明石市街のパノラマ)…左向こうに明石大橋が見える
 明石公園内にある「明石文化博物館」は、小学生の教科書にも載っている「明石原人」の骨のレプリカや「アカシゾウ」の全身骨格標本、その他、明石の歴史的遺産等を興味をもって見学した。
(明石文化博物館) (明石原人の骨) (アカシゾウの全身骨格標本) (宮本武蔵)
【明石原人】
明石原人とは1931年に直良信夫が明石の西八木海岸の断崖で発見した旧石器時代の人骨と言われている。実物の骨は1945年5月25日に明石は空襲になり消失している。その後、保管してあった石膏模型から標本が復元されている
【アカシゾウ】
明石で発見されたゾウの化石。200万年前から60万年前ごろまで日本で生息していたらしい。アジアの今の象よりは小さく、絶滅している種。
【宮本武蔵】明石の町割りの設計と町づくり作業の采配を振るったのは宮本武蔵だと記録されている。元和4年(1618)明石城築城と同時に、武蔵の軍略的な設計で城下町の町割り工事も進められている。町の裏行き(奥行き)は29メートルの規則正しい線引きがされた。町の呼び方は魚屋は魚町、商人は信濃町というように、職業名を町の名前にしている。町の線引きは今も形残っていて、魚の棚商店街などは奥行き29メートルの家が並び昔からの賑わいが続いている。

 
(2)東経135度子午線上を歩く
(子午線上で/3・4・5班)
 日本の標準時間は明石を通る東経135度を基準としていることは、どなたもご存じのこと。そして同じく世界の標準時間はロンドンの「グリニッチ天文台」の位置が緯度0度として定められていることもご存じの事柄。
そのようなことから、日本はロンドンよりも9時間早い時間となっています。日本が夜明けになったときでも、イギリスやヨーロッパはまだ前日の深夜近くということになります。
 むかし「80日間世界一周」という映画をご覧になられた方はたくさんおられることと思います。1872年イギリスの貴族が世界を80日間で一周することの賭けをして東回りで出発。途中の国々の面白い出来事は、この時代はイギリスが世界中に勢力圏を持っていたことがよくわかります。横浜にも立ち寄るシーンがあったのが記憶に残っている。ちょうど明治の初めの日本になる。そして太平洋を渡りアメリカ経由でロンドンに帰着。ちょうど80日目で戻ってきたが、思わぬトラブルで1日ロスをして結局81日になってしまったが、実質は80日であったので賭けに勝ったことになる、という映画でしたね。
この謎、皆さん既にお分かりでしょうが、旅行中は毎日時差があったということですね。つまり東回りなので80日間で1日分のマイナス時差が。そんなことで、この主人公は80日間を毎日を1日当たり23時間42分で過ごしていたことになるのですね。
【日本標準時子午線通過地の標柱
「大日本中央標準時子午線通過識標」と書かれている。日本では1888年(明治21)に日本標準時が定められ、この標注は1910年(明治42)に明石の小学校の教員がお金を出し合って建設しています。この当時の先生は裕福だったのですね
左:【明石市立天文科学館】…天文塔が東経135度の子午線上に建っている
中:【子午線標示柱(トンボの標識)】…天文科学館の北側の東経135度線上。
                    標識の向こうに見えるのが天文科学館
【子午線交番】…子午線上にある「大蔵交番」。交番が天文科学館に似せて建てられている 【日時計(明石城内)】 【日時計(月照寺境内)】 【子午線せんべい】…町のお菓子屋さんで売られている
町の主だったところには日時計や子午線関連がいっぱい。明石の街は子午線一色
(3)柿本人麻呂の万葉歌を詠う
 次は、この日の本来の目的であります明石を詠んだ柿本人麻呂の万葉歌碑を訪ねました。
●まず最初は「月照寺」。人麻呂の万葉歌碑は月照寺の山門前にあります
上左:月照寺山門と明石天文科学館塔】…400年前の建物と現代科学を表す塔のコントラストが面白い
・月照寺山門は1593年(文禄3)京都伏見城の薬医門として建られ、後にこの地に移築したもの
上右:【月照寺】
…江戸時代初期に元は明石城のところにあったが、城の建設により移築された

 
---ともしびの明石 大門に入らむ日や
        漕ぎわかれなむ 家のあたりみず---
(柿本人麻呂)
(人麻呂歌碑/月照寺山門前)
この歌をみんなで揃って朗詠したあと月照寺をお参りして、その次は「柿本神社」へ。神社境内には人麻呂の万葉歌碑が三つあります。
【柿本神社】祭神は柿本人麻呂。この付近が生誕地で、石見(いわみ)国で没したといわれている。770年(宝亀元)にこの地に社殿を建立。拝殿南側には「柿本大夫人麻呂之墓」と刻まれた石碑がある。また面白い話として、境内続きにある影現寺(ようげんじ)には人麻呂の木像を安置してあり、首がはめ込み式になっていて、夜中に月の出る方角を向くという言い伝えがある。

 境内の人麻呂の歌碑の横に、伝記を記した「播州明石浦柿本大夫祠堂碑」があり「亀の碑」とも呼ばれる。亀が碑を背負っているが、本当は「贔屓」
(ひき)という名の竜らしい。贔屓は我慢強く重い物を背負うという。このことから、贔屓(ひいき)という言葉の語源にもなっっているという。
(柿本神社・参道)
(柿本神社・拝殿) (亀の碑・柿本神社)
---天離る(あまざかる) 夷(ひな)の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば
            明石の門
(と)より 大和島見ゆ
---
                                   
(柿本人麻呂)

・ここで詠っている「大和島」とは、瀬戸内の明石海峡から難波の津(大阪)を見た時に大和の生駒・葛城連山があたかも大きな島のように見えることからの情景です。
・その当時、西海道(今の九州)へ赴いた人や、防人として出兵した人が、故郷へ戻ってくるときに瀬戸内海を通って明石まで来て、大和島が見えるということは本当に故郷へ帰ってきたという実感を抱いたことだろうと思います。
・そのような人々が恋い焦がれていた故郷はもうすぐだと、舟の上で小躍りしている情景が目に浮かぶような歌だと感じ取れます。
(人麻呂歌碑/柿本神社1)
---大君は 神にしませば あまくもの
      雷の上に いほりせるかも---
(柿本人麻呂)
 
---あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む---
(柿本人麻呂)
(人麻呂歌碑/柿本神社2) (人麻呂歌碑/柿本神社3)
(4)明石の街中と「魚の棚」
 柿本神社で人麻呂の万葉歌を詠った後は、源平合戦の旧跡や旧西国街道の名残の道標等を見物しながら、明石の街中を進みました。そして、明石と言えば「魚」。その魚たちは「タコ」「鯛」「あなご」「アジ」等などですが、それらの魚が朝の漁で獲れたまま昼には『ひる網』といって、活きのいいままに店頭に並ぶので有名。その魚を売る店が軒を連ねているのが『魚の棚(うおんたな)』です。
 店頭から道まではみ出してこの新鮮な魚をたくさん並べられたのを見ながら、威勢のいい掛け声のおじさんやおばさんの声を聞きながらしばし街中を散策しました。値段は結構安いようです。私はその安さがわからないので、万葉の会の女の人に聞きました。 売り子のおばさんの掛け声につられてついつい買う気になってしまったのですが、何を買ったらいいか分からず、女房に電話しました。そして、帰宅までの時間を考えて干し魚にしろとの指示があり、アジの干物、ちりめんじゃこ、ウルメの干物になりました。
(タイの句碑・妙見社境内)
--明石鯛の川柳句碑--
今の時勢を反映していて面白い川柳
(両馬川旧跡) (馬塚) (街中の道標1)
・・・人麻呂山
(街中の道標2)
・・・旧西国街道
--源平合戦史跡-- ・・・川柳は下記をご覧ください
【両馬川旧跡】山陽電車人丸駅近くに両馬川旧跡の石碑がある。平家武者の薩摩守忠度が討ち死にした地。寿永3年(1184)、一の谷の源平合戦に敗れた平家の薩摩守忠度が明石まで落ちてきた。あとを追ってきた源氏の岡部六弥太と両馬川で馬を並べて戦い、薩摩守忠度は岡部六弥太を取り押さえ首を取ろうとしたが、六弥太の郎党によって右手を切り落とされ討取られてしまう。こののち、忠度が馬を並べて戦った川を「両馬川」と呼ぶようになった。近くに忠度の墓と伝えられる「忠度塚」がある
【馬塚】両馬川史跡の少し北に平経正の馬を埋めたと言う「馬塚」。琵琶の名手だった経正も忠度とともに落ち延びる途中、河越小太郎の手勢に討ち取られた
【街中の道標1】「右 人麻山三丁」。人麻山月照寺へはあと300m余り
【街中の道標2】「右 加古川 ひめぢ 道」「左 ひやうご 大坂 道」。西国街道の加古川・姫路方面と兵庫・大阪方面との分かれ道
【タイの句碑】この句碑には次のような川柳が刻まれていました
---どの鯛も 明石で獲れた 顔をする--- (助六)
 2008年は食品偽装が社会問題となって世間を騒がせていたが、今も昔もこの川柳のようなことがあったということになりますね
(魚の棚/うおんたなの賑わい) (ひる網のタコ) (魚いろいろ) (明石鯛)
 魚の棚ではより鮮度の高い状態で魚を店先に並べられるために、昼の11時半からセリが始まる明石独特の昼市が「昼網」といいます。
昼市の明石浦漁協へは、店主が毎日出向きセリ落とした獲れたての魚がいち早く売られて、消費者の手に渡ります
『この鯛は明石で獲れた顔』をしていますか?・・・・・どうか、明石の鯛の顔ををしっかりと覚えてください
(干しダコ)・・・まるで置物か壁掛けの飾り物のようです
買って帰った「ちりめんじゃこ」、「ウルメの丸干し」、「アジの干物」…この日の夕食はこのアジの干物。1匹でお腹はいっぱいになるし、本当に『味』のいい『アジ』でした
【魚の棚】「うおんたな」と呼ばれる全長350mの魚の商店街。400年前に宮本武蔵が設計した町割りで、魚屋が整然と並ぶ町が作られ今もそのまま名残が残っている。明石の海での獲れたての新鮮な魚や、海産物の乾物、練り製品などを売る約110店舗が並んでいる。明石ダイ、明石ダコをはじめ、チリメン、イカナゴの釘煮(くぎに)、ノリなどが明石の名産
(4)畿内西端より「大和島」へ向かう
(少しお疲れ帰路の車内)
 明石で一日を過ごし、畿内の西端より東端の名張へ向かって「大和島」を望みながら一路帰途につきました。
 明石・魚の棚(うおんたな)を後にしてバスは第2神明道路をひた走り。その昔であれば難波の津に向かって艪がしなるというのでしょうか。多分その時代なら左は麻耶・六甲山が、右は紀伊水道の海原、前方は難波の津がはるかにかすんで見えてくる。そのまた前方には大和島の生駒・信貴連山が大きく目に入ってくる。
 しかし、今の私たちに見えるのは高速道路の路面と、前方と左右はビルばかり。大和島なんかどこにあるのやらという、まったく風情のない景色です。昔の姿は地理を頭に浮かべて想像するのみ。

 バスはビルばかりの中を縫うように進んで、難波の都の大阪市内へ。まだ大和の山々は見えないが、道路は間違いなく東の方向を目指して伸びている。難波から河内に出てきましたら、見えました、見えました、大和島の風景が。狭いバスの窓から建物ばかりが立ち並ぶその上に。頭の中は邪魔ものになる余分なものを排除して、昔の人が眺めた当時の景観を思い巡らしました。
---天離る(あまざかる) 夷(ひな)の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば
明石の門(と)より 大和島見ゆ---
(柿本人麻呂)
★都から遠い地方より戻ってくる長い道で、みやこを恋しく思いながらやってくると、
明石海峡からは懐かしい大和の山々が見えてきた
(講師の湯浅さん)・・・帰路でも疲れも見せず、車窓の景色の歴史との結びつきを説明してもらって (第2神明道路を大和島に向かって、バスはひた走りに走る)
(大阪市内環状線)…その昔なら、さしずめ難波の都の大通りになるのだろうか (通天閣)…市内環状線より写す。その当時なら、大阪湾を見通して、外敵を警戒するための「見張り台」には格好のやぐ
(大和島[1]生駒連山)…生駒山・信貴山。どうぞ余分なものは排除して、大和島を想像してください/バスの窓から撮影
(大和島[2]二上山と金剛山)…その時代も竹内街道を飛鳥の都に向った人も、この景色を見ていたでしょう/バスの窓から撮影
 畿内の東の端・名張を朝出発して畿内西端の明石へ。明石のいろいろを見て回り、夕方には再び畿内東端へ戻ってきました。私たちは日帰り旅行でしたが、その当時の人なら何日間だったでしょうか。往復の日数と滞在を含めると、1週間余りは優に必要だったのではないかと思います