【吉野の道】
2008.04.03(木) 本年度の最初の例会は、花の吉野へ。とはいっても花の時期には少し早すぎる。どんな開花状況かを楽しみにしながら、観光バスに乗車。桔梗が丘内の循環道路を回って参加者をピックアップ、8:00過ぎに出発。途中名張駅での参加者を乗せ総勢41名、165号線を榛原へ、そして宇陀を経由して吉野へ向かう。車内で本日の予定の説明を受けて、合わせて吉野を詠った「万葉歌」を朗詠 |
よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見 |
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(天武天皇) |
山高み 白木綿花(しらゆうはな)に落ちたぎつ 滝の河内(こうち)は 見れど飽かぬかも |
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(笠金村・かさのかなむら) |
滝の上の 三船の山に居る雲の 常にあらむと 我が思わなくに |
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(弓削皇子・ゆみげのみこ) |
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また、バスで向かっているこのルートは、近江朝打倒で挙兵した「壬申の乱」で大海人皇子と鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(後の天武天皇と持統天皇)が、吉野-宇陀-名張を経由して美濃に逃れた経路でもあるが、私たちはバスの中から当時のさまを想像しながらの行程であった
吉野川沿いの道に出てしばらく走行すると、大海人皇子一行が吉野から宇陀へ向かう時に通ったと推定される矢治峠-津風呂川(津風呂湖)ルートの、峠越え道の登り口を見ることができた。以前この峠越えを歩いたことがあるが、ひと一人がやっと通れる程度の急峻な山道であった。女子と幼い皇子を伴った大海人一行は、さぞやこの険しい山道では相当に難渋したことは想像に余りある。 |
9:50バスは『宮滝』に到着。吉野川にかかる『柴橋』を渡り、激流の『滝(たぎ)つ河内』、『夢(いめ)のわだ』を眺めながら、『宮滝・吉野離宮跡』へ。ここにある『万葉歌碑』は持統天皇がの吉野行幸の時、柿本人麻呂が全身全霊で持って天皇の徳をを讃えて献上した歌といわれている |
やすみしし 我が大君の 聞こしをす 天の下に 国はしも
さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を
吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱
太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(ふなな)めて
朝川渡り 舟競(ふなぎお)ひ 夕川渡る この川の
絶ゆることなく この山の いや高知らす 水そそく
滝の都は 見れど飽かぬかも |
【反歌】
見れど飽かぬ 吉野の川の常滑の
絶ゆることなく またかえり見む |
(柿本人麻呂) |
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(宮滝・吉野離宮跡付近/
吉野川・夢(いめ)のわだの景観) |
【宮滝・吉野離宮跡】」:
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(うたたねのはし跡碑) |
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(桜木神社こぬれ橋/
うたたね橋を再現) |
今年1月〜3月例会で山田先生の講座にあったように、持統天皇(689〜697)の在位9年間に31回行幸されているといわれる吉野離宮跡。ここを流れる吉野川は巨岩でおおわれ、水の流れはエメラルド色の激流。その風光明媚な美しさは多くの歌人に詠まれて万葉集に残っている。
吉野離宮は、656年斉明天皇が「吉野宮」を造ると「日本書紀」に記されている。そして672年6月24日大海人皇子が近江朝打倒の為ここから出陣している。そして679年の「吉野の盟約」後、持統天皇の吉野行幸が31回も続くことになる。
【うたたねのはし】:「夢(いめ)のわだ」の展望デッキのすぐ前に「うたたねのはし」跡の碑があった。興味があって写真を撮って、後で調べたら次のようなことだった
義経が吉野山から落ちのびてようやく吉野川の近くまでたどり着いた。そこには「象(きさ)の小川」に掛かている屋根を葺いた橋があった。橋の上から小川の静かで落ち着いた風景に見とれているうち、疲れ激しい義経はうとうとまどろんだという。以来、その橋は「うたたねのはし」と呼ばれ、この付近だったらしい。いまの桜木神社の参道の橋は、「うたたねのはし」のイメージを再現したものとのこと |
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(桜木神社) |
「吉野離宮跡」で人麻呂の歌を朗詠し、吉野川の「夢(いめ)のわだ」の景観を眺めた後、「喜佐谷」方面へ進む。7分ほどで『桜木神社』へ。神社の前は岩の間を縫うように清く冷たい水が流れる美しい『象(きさ)の小川』(喜佐谷川)。小川にかかる参道の『こぬれ橋』を渡って境内に入ると樹齢五百年の神木杉が、そして境内の正面の山が象山(きさやま)。朱塗りの社殿の右少し下に『山部赤人の万葉歌碑』があり、ここでもみんなで揃って朗詠。
【桜木神社】:近江の都を出て吉野に身を隠すことにした大海人皇子を、大友皇子の兵が追ってきた。その時、この地の大きな桜の木に身をひそめ危うく難を逃れたという。大海人皇子は672年の壬申の乱で勝利をおさめ、明日香・浄見原で即位し天武天皇となる。その後、吉野の宮(宮滝)へ行幸の際、この地を敬いここを「桜木神社」とした。
祭神: |
大穴牟遅命(おおなむちノみこと)
小彦名命(すくなひこなノみこと)
天武天皇 |
また、桜木神社は医薬の神として信仰篤く、疱瘡(ほうそう)除けのに御利益ありといわれる |
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み吉野の 象山(さきやま)の木末(こぬれ)には |
ここだも騒ぐ 鳥の声かも |
(山部赤人) |
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(象(きさ)の小川/桜木神社前) |
(象(きさ)の小川/上流) |
(吉野宮滝万葉の道) |
(高滝/象の小川上流) |
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「桜木神社」からは「象(きさ)の小川/喜佐谷川」に沿っての『吉野宮滝万葉の道』を、吉野山の上千本まで山道を歩くことになる。この万葉の道は山道に入って10数分、木立の間から滝が見える。江戸時代に本居宣長もこの道を通り「よろしき程の滝なるを…」と日記に書きとどめた『高滝』だ。「高滝」からまだまだ山道は続き、ようやく上千本の「花矢倉」にたどり着いた。麓の喜佐谷村から上千本まで、人一人がやっとの幅の欝蒼と茂った杉木立の中の山道を、4.6km・標高差340mを1.5時間かけて歩いてきたことになる
【吉野宮滝万葉の道】:吉野山と喜佐谷、宮滝を結ぶこの道は、その昔は西吉野や天川、黒滝地区の人々が伊勢参宮に利用した信仰の古道。杉木立の間を縫うように下り流れる象の小川には、落差10mの高滝が清冽な飛沫をあげて落ちている。
江戸時代の旅人はこの辺りで一息入れたという。本居宣長もここにさしかかって菅笠日記に書きとどめている。「喜佐谷村をすぎて山路にかかる。少しもぼりて高滝という滝あり。《中略》 象の小川はこの滝の流れにて、今過ぎこし道よりかの桜木の宮の前をへて、大川に落つる川なり」…(以上、吉野町観光課案内標識より抜粋) |
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(吉野水分神社/楼門) |
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(吉野水分神社/万葉歌碑) |
ようやく『上千本』の「花矢倉」にたどり着いて、「上千本」から「中千本」を遠望。桜は未だ開花せず。上千本はつぼみ固しだった。
そして『吉野水分神社(よしのみくまり神社)』へ。水分とは「水配」の意味で水を程よく田畑に配分する神様で毎年4月3日は五穀豊穣を祈る「御田植祭」が行われる。今日はそのお祭り日であったので、数名の方はこれを拝観することでここに残り、私たち一行は別行動で先へ進むことにした
【吉野水分神社(よしのみくまり神社)】:葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国の4つの水分社の一つ。水分とは水配り(みずくばり)を意味し、水の分配を司どる神様を祭る。また、「みくまり」が「みこもり(御子守り)」となまり、子宝、安産に霊験あらたかな神として信仰を集めている。
祭神: |
天之水分大神 (あめのみくまりのおおかみ)
天満栲幡千幡姫命(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)
天津彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと=神武天皇の母)
高皇産霊神( たかみむすびのみこと )
少名彦名命御子神(すくなひこなのみことのみこがみ) |
「吉野水分神社」の楼門の横には、珍しいことに陶板製の『万葉歌碑』が
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神さぶる 岩根こごしき み芳野の |
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水分(みくまり)山を 見れば悲しも |
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(作者不詳) |
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「吉野水分神社」を出て、近くの小さな神社の境内で昼食。午後からは吉野山を見下ろす高台にある『三郎鐘』、これの少し上に上ると草むらの中に不思議な形の石仏『人丸塚』をみてから、山を下り始める。『佐藤忠信の花矢倉』と『横川の覚範首塚』謂れの碑を経て、『上千本』のつぼみが未だ固い桜を観賞。ここからは中千本、下千本へ一気に下りの道を歩むことになる
【三郎鐘】:明治の初めに廃寺なった世尊寺がここにあって、本尊の釈迦如来と、侍者の阿難、迦葉の両像は蔵王堂へ、戎像は大阪へ、聖徳太子像は竹林院へと移された。しかし、釣り鐘の重量が3トンほど、高さ166cm、外径138cmなのでそのままに残った。俗名が「吉野 三郎」「三郎鐘」と呼ばれている。除夜の鐘では金峯山寺の僧によって撞かれ、長 い余韻が吉野山に響きます
【人丸塚】:柔らかい石で加工された仏像のようで摩耗が著しい。正面に線刻の如来仏が見て取れる。鎌倉時代の作らしい。これも俗称が「人丸塚」とも呼ばれて、火難を避ける「火止まる塚」ともいわれている。
【佐藤四郎兵衛忠信の花矢倉】:佐藤忠信は一人、頼朝の追っ手から義経主従を落ち延びさせる為に、義経の鎧と太刀を拝領し、「我は義経なり」と身代わりとなって、ここに踏みとどまり追いすがる敵を切り防いだ古戦場。忠信はこの小高い丘の上で、攻め寄せる僧兵の矢を雨あられと射つづける。そして妙覚院の豪僧の横川の覚範と血刀をふるって深い雪中で戦い、遂に覚範の首を取った。
【横川の覚範首塚】:義経一行を追ってきた横川の覚範は、花矢倉から矢を射かける佐藤忠信と戦い、討たれて首を取られた。その首を埋めた塚がこの「首塚」 |
(三郎鐘) |
(人丸塚) |
(佐藤忠信の花矢倉) |
(横川の覚範首塚) |
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【吉野山の桜】:吉野山のサクラは、下千本、中千本、上千本、奥千本と大きく4つに分けられる。山の上に行くほど、気温が低くなるため、開花の時期が微妙にズレるからである。花見シーズンの吉野山は下から次第に桜色に染まっていく。
サクラは約3万本。シロヤマザクラと呼ばれる日本古来の山桜が中心。葉が先に出て、花が咲く。咲きはじめ時期はソメイヨシノより若干遅い。
吉野山は標高858m、距離約8kmの馬の背状の尾根が中心 |
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(上千本から中千本を遠望) |
(上千本のつぼみ/未だ固し) |
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上千本より下り道をつぼみばかりの桜を観賞しながら、道端のお土産店をのぞきこんだり、周囲の風景を観賞しながらウオーキングを楽しむ。
歩いている中で印象深かったいくつかの写真を、以下に掲載します。そのような時でも万葉の会の皆さん、ある屋台の前に立ち止まってたむろしている。何事かと思って近づくと「手作り豆腐の屋台」。皆さんにわかに主婦に戻ってしまって、手作り豆腐や、特大サイズの田舎あげを買い求めていた |
【御幸の芝と雨師】:後醍醐天皇が吉野の行宮におられた五月雨の降り続くある日、供をつれてこの辺りに行幸された。空模様がさらに怪しくなったのでかたわらの観音堂にてしばらく休まれた。その時、詠まれたのがこの歌
ここはなほ 丹生の社にほど近し
祈らば晴れよ 五月雨の空 |
そうすると、空は晴れわたり、うららかな日和になったという話。それから、ここを「雨師観音」といわれ、この場所を「御幸の芝」という・・・(以上、御幸の芝説明板より)
右:(雨師観音堂跡にあるサクラ/枯れた桜の古木の根からまた新しい桜が) |
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(しだれ桜/喜蔵院) |
(白梅紅梅の源平咲き/豆腐屋台前) |
(手作り豆腐屋台前/やはり主婦) |
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(中千本のつぼみ/少し膨らむ) |
(桜あゆすし店) |
(だらにすけ店/店内の看板) |
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吉野山には古代から中世までのいろんな歴史的な出来事と関連することが残されているが、それとは別に吉野山から大峰山に至る峰続きの山々を金峯山というが、かつては修験道の寺院塔頭がいくつも山中に並んでいたところである。その中でも中心的な存在だった『金峯山寺・蔵王堂』に到着。
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(蔵王堂/金峯山寺本堂) |
ここで水無月生は不覚をとる。蔵王堂の写真を撮るべく周辺のあちこちを徘徊していて、少し時間が過ぎた。次の学習ポイントへ移動していったみんなの後につくべしと追ってみたが、なかなか見つからない。懸命に後を追って進むみ結局、下千本まで見つからず仕舞いだった。あとで聞いたが、後醍醐天皇「吉野朝宮跡」を訪れていたとのことだった。そんなことで以下は、水無月生が一人で歩いた「あるき録」になった次第。お粗末の極み。
【蔵王堂】:蔵王堂は、総本山金峯山寺の本堂で吉野山のシンボル。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置。重層入母屋造り、檜皮葺き、高さ34m、正面5間、側面6間の四方36mの堂々たる威容で、東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築。
大和の国 、吉野山から大峯山・山上ヶ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代よりの聖域。金峯山寺の開創は白鳳年間(7世紀後半)に役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山に修行に入り、本尊・金剛蔵王大権現を感得。この姿を桜に刻んで、山上ヶ岳(大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(金峯山寺蔵王堂)に祭祀した。 |
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【仁王門】:重層入母屋造、二重門(2階建て門)。建立後、南北朝1348年足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の兵火で焼かれ、1455年再建。本堂の蔵王堂が南面しているのに対し、「仁王門」は北面。これは大峯山へ北側から向かう修験者の入口として北面し、また、熊野から大峯山へ向かうには出口となる。仁王像は5.7mの身の丈。
【銅(かね)の鳥居】(発心門):「銅の神明鳥居」は大阪の四天王寺の石の鳥居、安芸の宮島の朱色の両部鳥居と共に日本三鳥居の一つ。高さ7.6m、柱の径1m。東大寺大仏を鋳造した余りの銅で造られ、弘法大師の筆で「発心門」と書かれている。吉野山から山上ヶ岳までの約30kmの間に「発心」・「修行」・「等覚」・「妙覚」の悟りへの4つの段階を象徴した4つの門があり、この「発心門」が最初の門。聖地への入口であり、俗界と聖地の境界を象徴する。大峯山入峯の修験者は、門に手を掛けて廻りながら「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」と三度唱えてから出発することになっている。
【黒門】:金峯山寺の総門で。門の様式は高麗門。昔は公家、大名と云えどもこの門から中へ入る時は、槍を伏せ、下馬して通行した格式の高い門とのこと。 |
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(下千本) |
(下千本のつぼみ/大きく膨らむ) |
(大橋)/護良親王(もりなが親王)が吉野城にたてこもった時に架けた戦略上の橋 |
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道標/上千本の分かれ道 |
下千本まで到着。ここの桜も未だ開花前でつぼみは大きく膨らんでいた。あと1週間以内には満開になりそうだった。吉野山の終着点の分かれ道、つまり近鉄吉野駅から七曲り坂を登って着た地点になる、伊勢方面と高野山方面の分かれ道になる所になる道隅に、昔の道標があるのを見つけた。「右いせ、左かうや」と刻まれている。
この道標の「右いせ」と書かれた方向に少し進むと。『松尾芭蕉の句碑』があった。句碑の刻み文は読み難く何と書いてあったか、あちこち調べてみたが結局判らず仕舞いだったので、句碑の写真のみを掲載します。
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(芭蕉句碑) |
ご存知の方がおられましたら、教えてください。
句碑を見ながら少し進むと、帰りのバスが待っている大駐車場へ。時間は14:40。バスを見つけて、はぐれてしまった私はここで一行の到着を待つことになった。
15:00過ぎ、皆さん到着。15:30頃バスは名張へ向けて帰路につく。バスの中では班長の方より全員にコーヒーを入れていただいた。温かい飲み物で今日の疲れも癒えました。ありがとうございました。今月もお世話さまでした |