万 葉 の 会・月 例 歩 き 録
例会日 2007年09月06日(木) 曇りのち雨
行 先 近江・蒲生野
ルート (五個荘観光センターバス下車)ー金堂散策(五個荘・近江商人屋敷町)-八日市・市神神社/額田王歌碑-船岡山・万葉の森/(昼食)/蒲生野万葉歌碑-山部神社・赤人寺/赤人歌碑-(バスで帰路)
【近江・蒲生野】
(桔梗が丘駅前バス乗車)  (バス車内)
 2007.09.06(木)は前日が台風で心配でしたが、何とかそれて曇り空。しかしはっきりしない日になりました。桔梗が丘駅前集合で貸切バスに乗車。参加者55名、8:20出発。道程は阿山を通って水口経由、東近江市・五個荘に10:30到着。
 9月例会は、五個荘・近江商人屋敷の見学、市神神社/額田王万葉歌、船岡山・万葉の森/額田王万葉歌・大海人皇子万葉歌、山部神社/赤人万葉歌を学んで歩くでした
(弘誓寺)
(那須与一の扇紋瓦)
 10:30バスは五個荘観光センター駐車場に到着。本日の学習ポイントの最初は、「金堂」の町並み散策から始まった。この「金堂」は近江商人発祥の地「てんびんの里・五個荘(ごかしょう)で、白壁と蔵屋敷が水路で囲まれた江戸時代から明治の豪商/近江商人屋敷の町並みを残している
 歩き始めは寺前・鯉通りの「弘誓寺(ぐぜいじ)。豪商の町にふさわしい立派な構えのお寺でした
【弘誓寺(ぐぜいじ)】真宗大谷派寺院。那須与一の孫・愚咄坊(ぐとつぼう)の開基。1764年建立。表門の鬼瓦には那須与一の扇の紋がある
(近江商人屋敷町)
 弘誓寺を出て用水路の道を進むと近江商人の家並みが続きます。白壁、舟板塀や土蔵が並ぶ屋敷まちです。見学は次の3つの館を訪ねました
(1)「外村繁邸」(とのむらしげる)…湖国の作家・外村繁の生家
(2)「外村宇兵衛邸」(とのむらうへい)…五個荘商人の本家邸宅
(3)「中江準五郎邸」(なかえじゅんごろう)…戦前の百貨店王の旧邸宅
 この地域は重要伝統的建造物保存地区に指定されていますので、独特の雰囲気の景観を楽しむことができます。また、商家に残された数々の道具類、座敷、日本庭園などは歴史的な価値を存分に味わうことができます
(外村繁邸台所) (妻女心得條)
【(1)「外村繁邸」】明治28年(1895)4代目外村宇兵衛家より分家。東京日本橋、高田馬場に呉服木綿問屋を営む。外村繁は家業を継ぐが、後に小説家になり近江商人を題材とした数多くの作品を残している
(屋敷の台所に「妻女心得條」なる面白い展示物があった)
・雌どり暁を告げざること
・お佛供米朝夕欠かさず妻女勤めなり
・一粒の米粗末にならざること
・主人下帯我が湯巻類必ず自分にて洗うこと
・午前中女中に小言いはわざること
・酒燗熱からず温かからず妻女勤めなり
(外村宇兵衛邸)
【(2)「外村宇兵衛邸」】初代外村宇兵衛が文化10年(1813)呉服太物の商いが始まり。明治時代は全国長者番付に名を連ねる。東京・横浜・京都・福井に支店を開き、近江を代表する豪商としての地位を築く。明治時代の隆盛期の屋敷は母屋・納屋・書院・大蔵・米蔵・雑蔵・大工小屋など十数棟があった。五個荘商人の本家の生活がよく見てとれる屋敷
(庭に「切支丹灯篭」がありました)
・何故この屋敷にこの灯篭があるのか、明治時代ではキリスト教も許されていたのに。多分どこから買ってきたのでしょうね
・灯篭の形状は十字架を、竿
(さお)の部分にマリア像を象徴した地蔵さんが彫られ、切支丹灯篭といわれている。隠れキリシタンが、表向きは地蔵さんとして、ひそかにマリアに祈りを捧げていた
(川戸)…外村宇兵衛邸
屋敷内に水路を引込んだ洗い場
(座敷)
…外村宇兵衛邸
(日本庭園の井戸)
…外村宇兵衛邸
(切支丹灯篭)
…外村宇兵衛邸
上:(中江準五郎邸の庭園)
池泉回遊式の見事な庭園
右上:小幡人形…郷土玩具
 
右:五個荘商人について
説明を聞く
【(3)「中江準五郎邸」】明治38年(1905)朝鮮大邱に三中井呉服店として創業。昭和9年(1935)「三中井百貨店」として、呉服事業から百貨店へ事業転換。戦前は朝鮮・中国で20店舗を持つ大百貨店であったが、終戦とともに全ての資産を失う
・屋敷内には五個荘の郷土玩具・小幡人形と全国の土人形が展示されている

(屋敷の見学で「五個荘商人」について興味深く聞きました)
・近江商人とは…近江八幡、日野、島、五個荘の4つの町の商人をいう
・五個荘商人の全国での活躍の話
・経営理念…三方よし(売手によし、買手によし、世間によし)
・商売の精神…不撓不屈・勤勉・倹約・正直・堅実でが基本。
各家には家訓が残されている
・人事管理…丁稚制度(雇った丁稚から才能あるものを見い出すのは妻女の役目)
 「五個荘」の商人屋敷町の水路の流れの中に、あちこちで草が植えられています。あるところでは、何かを祀っているかのように花が竹筒に飾られていました。用水路には錦鯉が放し飼いになっているらしいのですが、この日はお目にかかれませんでした(台風襲来の影響で避難させたのかもしれない)
(白壁と用水路) (用水路に祀っているかのように飾られている花と、植えられている草)
 五個荘を後にして再びバスに乗車、時刻は12:00少し前。10分ほどで、次の学習ポイント八日市の「市神神社」に着きました。ここでは「額田王万葉歌碑」を詠むのと、神社拝殿にある「額田王立像」を見せていただくことでした。湯浅先生が事前に予約をされていたのですが、何故か神社の管理の人が不在で開扉がかなわず、扉の格子越しに覗く程度になりました。写真は格子の間からなんとか撮影できました
 歌碑の前で全員そろって「額田王万葉歌」を朗詠
【市神神社】
恵比須さんを祀った近江七福神の一つの神社で、聖徳太子が自ら神像を刻み商いの道を教えたとされている。神体の恵比寿さんの胎内には太子の神像が安置されているといわれている
祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと)
(市神神社)

配祀神:大国主命 猿田彦大神 額田王
【額田王万葉歌】
君待つと 我(あ)が恋ひ居れば
(わ)がやどの 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く
 

(額田王万葉歌碑)

(額田王立像)
 市神神社から再びバスに乗車。10分ほどで阿賀神社に12:34到着。この神社の奥が「船岡山・万葉の森」。神社境内で昼食をとることにしたが、このころから雨が降ってきた
万葉歌の大海人皇子と額田王が「蒲生野」で詠ったのがこの地になる
 大津京から天智天皇とそれに従った大宮人たちが、蒲生野へ薬猟に出かけた。男は弓矢で鹿や猪など獲物を狩り、女性は紫草などの薬草を摘むことで野遊びを楽しんだ。この時の宴席で大海人皇子と額田王とが交した相聞歌が万葉人の恋物語として、私たちに語り継がれてきている
 昼食後、雨の中を万葉の森の「歌碑道」を登って「蒲生野万葉歌碑」へ。歌碑の前では「額田王」と「大海人皇子」の万葉歌をみんなで一緒に朗詠
丘の上からは蒲生野が一望できるところであるが、樹木と茂みが繁茂していておまけに雨なので、梢の間から垣間見る程度になった
(蒲生野の薬猟を描いた陶板のスペクタクル・レリーフ)…大きさは幅12m,高さ3m程ある (歌碑道を登って船岡山へ)
【蒲生野万葉歌】
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る
(額田王)
紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我(あれ)恋ひめやも
(大海人皇子)
左:(万葉植物園)
万葉集に詠まれている草木花が歌碑とともに植えられている
右:あかね草
右端:むらさき草
(山部神社) (赤人供養塔)
 昼食をはさんで14:00頃まで約1.5時間ゆっくりと蒲生野を楽しんだあと、またバスに乗って今日の最後の学習ポイントの「山部神社・赤人寺」へ。ここでも歌碑の前で、「山部赤人万葉歌」をみんなで朗詠した
 山部神社・赤人寺は神社に山部姓を、寺には赤人名を用いていて、同じ敷地内にある。蒲生・下麻生は万葉歌人・山部赤人が生涯を閉じた地
・「山部神社」は赤人を祭神としている。本殿は室町末期の建立
・「赤人寺」は赤人が蒲生野へ遊歴した際、冠を木に掛けたのがなくなったので、一夜をここで過ごすことになった。その夜「この地こそ仏法興隆の勝地なり、この地に安置すべし」の夢のお告げがあり、この寺が創建された。鎌倉後期の建立。冠をかけた木は「冠掛けの桜」と伝えられる
・「七重石塔」は赤人の冥福を祈った「赤人供養塔」
【山部赤人万葉歌】
田児の浦ゆ うち出でて見れば真白にそ
不尽(ふじ)の高嶺に雪は降りける
 
春の野に すみれ摘みにと来(こ)し我そ
野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける
 14:45頃、山部神社・赤人寺をあとにして帰途につく。桔梗が丘へは17:30頃帰着した。
皆さんお疲れさんでした