万 葉 の 会・月 例 歩 き 録
例会日 2007年07月05日(木) 晴れ
行 先 伊勢の海〜答志〜
ルート 鳥羽/フェリー乗船-和具港-洞泉庵跡/胴塚-(遊歩道)-首塚-美多羅志神社-人麻呂歌碑・八幡神社-西行歌碑-(昼食/宿・定洋)-答志まちなか散策-答志港/フェリー乗船(帰路)
【伊勢の海〜答志〜】
(写真)
上:近鉄特急社内
右上:フェリー乗船
右下:フェリー船内
 2007.07.05(木)は天候についていた日でした。前日までは雨、この日は朝からすっきりと晴れ上がった梅雨の晴れ間、そして翌日からはまた雨という予報になっていました
 桔梗が丘8:00の出発、伊賀神戸で特急に乗車、鳥羽着9:08。鳥羽港から貸切フェリーに乗船、答志島・和具港9:38着。本日の参加者53名。
 島での学習は、九鬼嘉隆に関する遺跡、柿本人麻呂の歌碑、八幡神社、西行の歌碑等を歩いて、また、歩きながら答志島の人情、風習にふれることができました
 答志島・和具港でフェリーを降りて漁村独特の雰囲気の家並みの道を3分ほど歩くと、「洞泉庵跡」に到着。ここ洞泉庵は九鬼嘉隆が関ヶ原の役で敗れて答志島に逃れ切腹したところ。そしてこの場所に嘉隆の胴を葬った「胴塚」、ここより築上(つかげ)山遊歩道を登っていくと「首塚」がある。山頂からの鳥羽湾は絶景といえる美しさだった
(洞泉庵跡碑) (血洗い池) (胴塚/九鬼嘉隆の墓) (築上山遊歩道/首塚への道)
関ヶ原の役では九鬼嘉隆は情勢の見極めがつかないことより、家名存続のため西軍に加わり、子の守隆は東軍に加わる。敗れた西軍の嘉隆は答志島に逃亡。子の守隆は徳川家康に父の助命を嘆願し、守隆の功績が大きかったので家康もこれを認める。しかし嘉隆はこの報を聞く前に和具の洞泉庵で自刃してしまう。首級は家康の実検のため伏見城まで運ばれたため、胴体のみが葬られ胴塚が建てられた
血洗い池は洞泉庵の前庭にあって、そのときの血で染まった刀を洗った池といわれている
首級は実検の後に答志島へ戻り、胴体とは別に築上(つかげ)山頂に葬られ、首塚が建てられた。首と胴が別々に埋められているのは、家臣が主人の首を奪われることを恐れたからということらしい

(首塚/九鬼嘉隆の首頭を葬る)

(首塚の塚石)
右 : (鳥羽湾展望/首塚よりの眺めは絶景)
(海人小屋) (元海人の男たち)
 築上山を下って海岸沿いの道を歩くと、浜辺によしず囲みの小さな小屋があった。海人(あま)小屋と聞かせてもらった。道端では年配の数人の男が床几に座って海を眺めながら談笑していた。問いかけてみると、「わしらは元は海人(あま)として海に潜っていた」と言っていた。答志島では男が海に潜るそうだ。そんなことで海女ではなくて海人(あま)いうことになっている。
 道は緩やかな坂道にかかった。答志島の風物を眺めながら首塚から歩くこと30分、「美多羅志神社」に着いた。近くには「岩屋山古墳」、「蟹穴古墳」、「潮音寺」等の史跡がある。休憩と説明を聞いて神社の鳥居の前でそれぞれの班毎に写真撮影。今度は下り坂を下って「八幡神社」へ向かうことにした
 道の左右を興味を持ってみていると「たこ壺」がたくさん見かけた。答志島はたこの漁業も盛んなのだ。そんな風景を眺めながら進むと朱塗りの「八幡橋」が見えてきた。「八幡橋」を渡るとそこは「八幡神社」。神社の鳥居の横には「柿本人麻呂歌碑」。歌碑の前でみんなで一緒に朗詠。そして八幡神社を参拝

(美多羅志神社より八幡神社へ)

(美多羅志神社前で5班) (道端で見かけたたこ壺)
【美多羅志神社】
里の産土神(子宝の神)で神社。祭神は八柱の神々。妊娠中にアワビをお供えをしお参りすると目のきれいな子供が生まれるといわれている
【八幡神社】
島の東方の半島先の小島・八幡鼻にあり、大漁祈願、海上安全の漁業の守り神。本殿は神明造り
八幡祭りは勇壮な弓引神事が行われる
神紋は丸に八の字で、島では神棚や戸板、船などにこの字を書く風習がある

(八幡橋)

(八幡神社鳥居)

(八幡神社社殿)

(柿本人麻呂万葉歌碑)

(人麻呂歌碑前で5・6班)
【五十嵐研三の句碑】

いちいち中のぞき  
     蛸壷並べ干す
(八幡神社鳥居の横)
【柿本人麻呂の歌】
   釧(くしろ)つく たふしの崎に今日(けふ)もかも 大宮人の玉藻刈るらむ

(神島)

(西行歌碑)

 八幡神社から島の北側を歩く。向うに「神島」が見える。三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった島で、古くは「亀島」とか「歌(か)島」と呼ばれたらしい
その神島を見ながら「西行法師歌碑」に着いた
【西行法師短歌】
 さきしまの 小石の白を高波の 答志の浜に 打ち寄せてける
山家集に「伊勢の答志と申す島には、小石の白の限り侍る浜にて黒はひとつもまじらず、むかひて菅島と申すは黒の限り侍るなり」と前置きして、詠まれた四首の歌の中の一首

時間はちょうどお昼時に。西行歌碑のすぐ近くの「味覚の宿・定洋」でみんなで座敷に上がっての食事になった
(揃って座敷で昼食)
食後、NHKが2007/06/17に一時間のドキュメンタリー放送をした「特集・里海の四季」のビデオを鑑賞した
これはNHKがこの宿に何日間も宿泊して答志島の1年を記録したものでした
(寝屋子交流の館)

ビデオの内容】
テーマ:(1)伊勢湾・答志島に暮らす人々の一年 (2)一千年続く迫力の伝統漁 (3)絆つなぐ寝屋子制度 
答志島の人々が海の恵みに感謝と敬いをもって暮らしている様子。1000年も前からの伝統漁法、盆・正月の神事、次の世代を育てる寝屋子などを、現代も失うことなく受け継がれている暮らしぶり。その人々が海が生活のすべてとして暮らしている答志島の四季を記録していました
(書かれた「まるはち」)
(蘇民将来子孫家門)
(狭い道のまちなか)
 午後からは答志島まちなかを散策。独特の狭い道筋を歩いて島の風物、情景を見て回った。家々の入口には「蘇民将来子孫家門」の護符の注連縄が飾られ、また、壁や入り口、船等いたるところに墨で「まるはち」の神紋が書かれているのが興味深い

【まるはち】
「まるはち」八幡神社のしるしで、家内安全を願い、魔よけとして書かれる。年に一度の八幡神社大漁祈願祭に「お的」という行事で運ばれる神聖な墨を、島の男らが奪い合いその墨で書かれる。

【蘇民将来子孫家門】
その昔、素盞嗚命(すさのおのみこと)が伊勢の地に旅したとき、貧しい暮らしをしている蘇民の家で一夜の宿の恩を受けた。翌日の出立の時に「後の世に疫病あらば、 汝、蘇民将来の子孫と云いて、茅の輪(ちのわ・茅やわらを束ねて作った大きな輪)を以ちて腰に付けたる人は免れなむ」と言って去った。こうしたことからか伊勢では「蘇民将来子孫」と書いた注連縄を飾ると家中に邪霊が入らないということのようです

【寝屋子】
一定年齢に達した男の子数名を預かり、世話をする制度で百年以上前からの不思議な風習。この珍しい風習が現在も答志島に伝統が受け継がれている。預かる家を寝屋子といい、男の子を寝屋子の子という。寝屋子は食事と仕事は実家でするが、夕食後は寝屋で過ごし寝泊りする。寝屋子となった男の子は生涯義兄弟の縁を結び、冠婚葬祭など何か事がるとすぐに駆け付けてくる。この制度は九鬼水軍がいざと言う時に船のこぎ手を集める際、早く人を集められることから起こったともいわれている
(昼下がりをくつろぐ答志の年配者たち)
 帰りのフェリー乗り場は答志港。港への道筋でまた年配者たちが昼下がりの時間をたむろしているのを見かけた。許しを得て撮影させてもらった。ここでものんびりゆっくりした時間をくつろいぐ島の人びとの情景を見ることが出来た
 14:10にフェリーに乗って帰途に着いた。皆さんお疲れ様でした。今日も楽しい一日でした。ありがとうございました