万 葉 の 会・月 例 歩 き 録 | |
例会日 | 2007年06月07日(木) 晴れ |
行 先 | 住吉の道 |
ルート | 住之江・あられ松原公園/万葉歌碑-住吉行宮跡-大歳社-細井川-浅沢社-住吉大社・南門-石舞台-楠珺社ー大海神社-30世紀万葉歌碑-反橋ー住吉鳥居-本宮四社-御田-(昼食)-住吉公園・潮掛道-高燈籠-粉浜・万葉歌碑-帝塚山古墳-黄土発見地 |
【住吉の道】 2007.07.07(木)本日も快晴。万葉の会の例会はいつもいい天候に恵まれる。本日の参加者53名。行先はいつもの近鉄沿線を離れて南海電車に乗ることになる。桔梗が丘駅8:24発急行乗車、なんば下車。南海難波駅で本線に乗車、住ノ江駅へは10:20過ぎ到着。駅構内でいつものように本日の行程説明を受けて、第1番目の学習ポイント『あられ松原公園』へ下町の細い道を通って歩行開始した |
(南海難波で乗車) |
(住ノ江駅で ミーティング) |
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「あられ松原公園」にある『霰松原神社』の脇には『万葉歌碑・長皇子の御歌』がある | |||||||||
《長皇子の御歌》 あられ打つ あられ松原住吉(すみのえ)の 弟日(おとひ)娘と 見れど飽かぬかも 【霰松原神社】 天水分豊浦命神社(あめのみこまりとようらのみこと) 【あられ松原】 この辺りは奈良・平安時代は海に沿って堺まで白い砂浜と松原の美しい景観が続いていた。、大阪と南河内、紀州へ通じる街道あり「岸辺の道」と呼ばれていた |
(長皇子の万葉歌碑) |
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(住吉行宮跡) |
あられ松原公園より阪堺線沿いの狭い道を北進すること約10分、『住吉行宮跡』に到着 【住吉行宮跡】 南北朝時代、後村上天皇が1352年に吉野からこの地にに移り、住吉大社神主津守氏の住之江殿・正印殿(しょういんでん)を行宮にした。その後ここが南朝の勢力挽回の中心地となり、後村上天皇が1368年崩御し長慶天皇が即位後、吉野に移るまでの約9年間、行宮であった 住吉行宮跡より再び北進、『大歳社(おおとししゃ)』へ向かう道で右の写真のような古い道標が曲がり角にあった。車に当てられて傾いていたが、これからも無事に保存が続くことを願いたい (道標:左あびこ観世音、右子安地蔵尊と記されている) |
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(大歳社) |
細井川(細江川ともいう)をはさんで、南側に『大歳社(おおとししゃ)』、北側には『浅沢社』がある。いずれも住吉大社の末社になる 【細井川】(左の写真) 正確には『細江川』というらしい。古代には「住吉の細江」と呼ばれる入り江で、「住吉津(すみのえのつ)」だったということ 【大歳社(おおとししゃ)】 稲の収穫の守護神。大阪商人は、特に集金の守護神として信仰。家の安全、幸福の守護神でもあり。祈祷をしてもらうと初辰まいりのお守りとして、小石に大の字が書かれたものが授与される 祭神:大歳神 (おおとしのかみ) 【浅沢社】 弁天さん。芸能・美容の神として親しまれ、住吉参拝の女性は、必ず訪れる慣わしがあり、杜若(かきつばた)の名所でもある 祭神:市杵島姫神 (いちきしまひめのかみ) 浅沢社の前に「住吉名勝保存会」の掲示板があって、『浅沢の杜若(かきつばた)』として万葉歌が書かれている 住吉の浅沢小野の杜若 衣に摺りつけ着む日知らずも また、次のようなことも書かれている(要約) ・昔、ここから南にかけて清水の湧く大きな池があり、浅沢池と呼ばれていた。奈良・猿沢池、京都・大沢池と並ぶ名勝だった。住吉の浅沢池は美しく咲き乱れる杜若で歌人たちに愛され、万葉集を始め多くの歌集にその名が出てくる (右の写真:浅沢社の横の常夜灯。周りは杜若(かきつばた)で囲まれている) |
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(浅沢社) |
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浅沢社より西へ少し行くと『住吉大社』の『桃山の大鳥居』にきた。今日は住吉さんの正面からではなく南より入って、裏手の摂社・末社をまず見てまわることになっている。 最初に大鳥居をくぐる。この鳥居の両脇にある常夜燈の前で説明を聞いた。「住吉さんの燈籠の文字は彫り刻みが深くなっている。又、寄進者は昔は廻船問屋がほとんどとのこと」。確かに他の神社とは刻み方が違う。やはり、海の守り神は住吉さんというがよくわかる。このあと見る燈籠はどれを見ても彫り刻みは深く、寄進者は廻船問屋のものばかりであった 【桃山の大鳥居】 慶長年間に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として東大鳥居を東参道の旧住吉街道に建立した。戦後撤去されていたのを、1978年に住吉名勝保存会によりこの南門前に移築した |
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(住吉大社南門へ通じる桃山の大鳥居) (右:燈籠…文字の刻みが深い) |
(住吉大社・南門) |
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南門を入ると門の横の軒下に4羽のカモが涼んでいた。日陰の涼しいところでのんびりしようということか。門のすぐ目の前は『石舞台』。日本三舞台(住吉大社・厳島神社・四天王寺)のひとつで、重要文化財。毎年5月の卯之葉神事では、舞楽が行なわれる。 石舞台の横を通り過ぎていくと、大きな楠木がおおいかぶさるように茂っている。木の太さと高さに圧倒される。『楠珺社(なんくんしゃ)』がここにある。 【楠珺社】 末社。お稲荷さん。境内の樹齢千年を超える楠木の大樹に、江戸時代の人々は楠木の神秘的な霊力に祈りを捧げていて、根元にお稲荷さんを祭るようになったといわれている。 祭神: 商売繁盛・家内安全の神さま |
(石舞台/住吉大社) |
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(楠珺社/住吉大社) |
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(右:千年楠) ご神木 樹齢1000年 高さ18.5m 幹周り9.8m |
(夫婦楠) 樹齢 800年 |
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大社境内の東側には小さな祠や社、文化財が数たくさんある。その全てを記事にすることが出来ないので、興味を持った『東高倉』と『種貸社』の写真を右に掲載する。 【種貸社】 末社。昔は稲種を授かって豊作を祈っていたのがその後、神から授かった「お種銭」を資本に商売すれば繁盛すると、大阪商人に信仰された。また、稲の繁殖には穀霊が宿っているといわれ、子宝に恵まれる神でもある 祭神:倉稲魂神 (うがのみたまのかみ) |
(東高倉) (種貸社) |
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次は、住吉大社本殿の真北にある摂社・『大海神社(おおわたつみにんじゃ)』。 | |||||||||
社名のとおり大海原を司る神様になる。昔は拝殿の前が海だったらしい 【大海神社(おおわたつみ)】 摂社。 山幸海幸神話の海神の豊玉彦、豊玉姫を祀る。神社はその舞台の海宮、つまり龍宮そのもの。本社に次いで神格の高い社 。本殿は本社と同じ「住吉造」で、重要文化財。社前の「玉 の井」は海神より授かった潮満珠(しおみつたま)を沈めたと伝えられている
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(大海神社・拝殿/住吉大社) |
(大海神社・鳥居/住吉大社) |
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★ 潮満珠(しおみつたま)…潮の満干を支配する力を持つもの | |||||||||
大海神社へは南横から入ったので鳥居をくぐるのは参拝の後になってしまった。そんなことで鳥居を逆にくぐってから住吉大社本殿へ向かう。本殿前の蓮池には、住吉さんのシンボルでもある真っ赤な太鼓橋の『反橋』がかかっている。その反橋のたもとには『万葉歌碑』があるが、「30世紀に送るメッセージをとして、17首の万葉歌」を埋め込んである。いつものように歌碑も前に全員揃って朗詠。17首全てを掲載できないので、その中の歌碑正面に刻まれている2首のみとします。 | |||||||||
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【石燈籠】 全国から奉納された燈籠は約600基あり。海上守護の祈願をこめて寄進したもので、広告塔としての意味合いも強かったといわれている
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(蓮池にかかる反橋/住吉大社) |
【反橋】 住吉さんのシンボルとして有名で太鼓橋。昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せられていたそうです。この橋を渡るのは、神さまに近づくのに罪や穢 (けが) れを祓 い清める意がある。反っているのは、地上の人の国と天上の神の国とをつなぐ掛け橋で、虹にたとえられている 長さ20m、巾5.5m、反りの高さ3.6m |
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(蓮池のカモ) (蓮池の亀) |
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全員揃って反橋を神の国へ向かって渡っていくと、そこに見えるのが大きな石鳥居。他の神社とは鳥居の柱が違う。住吉さんのは鳥居の柱が角型になっていて『住吉鳥居』というらしい。角鳥居をくぐって「幸寿門」を入ると、『住吉大社』の本殿が縦一列に並んでいる。本殿のつくりは「住吉造」といわれ国宝に指定されている。 【住吉鳥居】 四角柱の鳥居であるため、角鳥居 とも呼ばれている。柱が四角と貫 (ぬき) の両端が柱から外に出ないことが特徴で、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱塗りの鳥居が原形となっているとのこと。 【住吉大社】 第一本宮~第三本宮まで縦に、第四本宮は第三本宮の横に並んでいて、住吉大社だけの建築配置となっている。大海原をゆく船団のように立ちならび、「三社の縦に進むは魚鱗の備え、一社のひらくは鶴翼の構えあり、よって八陣の法をあらわす」とも言い伝えられているらしい。 本殿の「住吉造」について少し調べてみました。次の3つの特徴があるとのことです。 ・柱、垂木、破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗り。柱は太い丸柱で礎石の上に立ち、柱間は横板張り ・屋根は桧皮葺で切妻。置千木と5本の四角堅魚木がある ・出入り口が直線型妻入式。周囲に迴廊なく本殿の周囲には板玉垣、その外には荒忌垣 (住吉大社についての「古事記」神代の巻) 伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追って、黄泉の国に行ったが連れて戻ることができず、逆に汚れを受けてしまう。その汚れを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのをのみこと) 、中筒男命 (なかつつのをのみこと) 、表筒男命 (うはつつのをのみこと) が生まれた
十四代仲哀天皇の妻・神功皇后が新羅に出兵する際に、住吉大神の力をいただいて遠征を行い、大きな戦果を得ることができた。そのことより住吉大神のお告げがあり、この住吉に祀られることになった |
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(住吉鳥居/角鳥居)と(幸寿門) |
(一列に並ぶ第三~第一本殿) (右が第四本殿) |
(第一本殿) |
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本殿を参拝を終えて再び角鳥居をくぐり、境内を南に進むと『御田』に突き当たる。海の神様であってもやはり大和の国は米造りが大切であったということを示している 【御田】 神功皇后が五穀豊穣を祈り、長門国から植女(うえめ)を召したのが始まり。6月14日の御田植神事は、ここで執り行なわれる。今も苗を植え、稲刈りまで実際に行っている。栽培は境内で見かけるカモによる無農薬栽培をしている (右写真:御田) |
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住吉さんを全て見学してまわっての最後になってから、正面入口の大鳥居をくぐって住吉大社をあとにした 住吉大鳥居の前の道は阪堺線の路面電車通り。電車道を渡ってそのさきは南海電車・住吉大社前駅。その近くに予約していた食堂で本日の昼食「豆ご飯」を食した。 昼食の後、住吉公園のメインストリートを西に向かって歩く。この道は住吉大社から西に向かって海に出る道になる。昔は『潮掛道』という道で、住吉大社への海からの参道ということになる 【潮掛道】 ここは昔は住吉大社の神事の馬場として使われた所で、社前から松原が続き出見(いでみ)の浜に出た。この道が大社の参道で浜で浄めた神輿が通るため『潮掛道』といった。沿道の燈籠は代々住友家の寄進によるもの |
(住吉大社/大鳥居) |
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潮掛道には『芭蕉句碑』がある。芭蕉の住吉を参詣は元禄7年(1694)9月13日「宝の市」の宵だったとのこと。この市は升をたくさん売っているので「升の市」ともいう。ここで芭蕉が一合升を買ったときの句 《芭蕉の句》 |
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升買うて 分別かはる 月見かな | (潮掛道の古図/住吉公園のこの道にレリーフにしていたのを撮影) …写真をクリック・拡大して往時の様子をご覧下さい… |
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住吉公園内の潮掛道の西端は国道26号線になっている。国道の西側にひときわ大きな燈籠が立っている。『高燈籠』という。保存復元されたものであるが、当時の状態を忠実に再現して保存されている。高燈籠の公開日は第1、第3日曜のみであるが、この日は特別に私たちのために開館してくれた。湯浅先生の力はすごいものだといつもながらの感心するのとその計らいに感謝する次第。高燈籠の前で住吉名勝保存会の役員の方の説明を受けて、内部の見学を行った。 【高燈籠】 高燈籠は江戸中期18世紀初め、住吉浜辺にたてられた日本最古の灯台。昔は現在地より200m程西にあった。昭和40年代、高速道路の建設で取り壊されたが、住吉名勝保存会の手により現在の地に昭和49年(1974)12月、精密に復元再建された。 高燈籠は底辺12mに石土台に二重やぐら、宝形づくりの屋根に露盤と宝珠がつけられ21mの高さがある。最上部に菜種油の灯をともし夜間航行の舟の目印となる灯台の役目を果たしていた。 寛政年間の摂津名所図会に「高燈籠 出身の浜にあり 夜走の船の極とす 闇夜に方角失ふ時 此の燈籠の灯殊に煌々と光鮮やかぞ」と記されている |
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(高燈籠) |
(江戸後期の高燈籠) (左上:高燈籠内部/下から上を見る) (左下:明治末~大正初年の高燈籠) |
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高燈籠から再び住吉公園内の潮掛道を住吉大社駅まで戻って、南海本線沿いに一駅先の粉浜駅まで北進。粉浜駅前の『万葉歌碑』をみんなで朗詠、そして記念の集合写真を撮影した。 | |||||||||
《万葉歌》 住吉の 粉浜のしじみ 開けも見ず 隠(こも)りてのみや 恋ひ渡りなむ (歌碑横の説明板より) この歌は天平6年(734)春3月、聖武天皇難波行幸の時の作者未詳の歌。粉浜の美しい風土と人びとの奥ゆかしい心がうたわれたもので、粉浜の歴史を知り郷土の誇りを永遠に伝えるため、大阪大学犬飼孝名誉教授の揮毫によりこの歌碑を建立した |
(粉浜の万葉歌碑前で5班) |
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粉浜駅前から帝塚山高級住宅地内を通って『帝塚山古墳』へ向かう。昔からの高級邸宅がまだたくさん残っている街であるが、代替わりで土地が売却されてマンションもあちこちに建てられていて閑静な品位のある家並みに変化の兆しがあるのは時代に流れとはいえ、なんとも惜しい感じを持った。 粉浜駅前より20数分歩いて『帝塚山古墳』に到着。この古墳は住宅地内であったがかろうじて破壊をまぬかれたのは、帝塚山学園の敷地に隣接していたので周囲を塀で囲われたことが幸いしたとのこと 【帝塚山古墳】 二段築成墳丘の前方後円墳。墳丘長120m、後円部直径57m、高さ10m、前方部巾50m、高さ8m。円筒埴輪列や墳丘を覆う葺石の確認がされ、4~5世紀初の造営と考えられる。明治31年(1898)陸軍特別大演習がこの付近で行われ、明治天皇が墳丘上から統監されている |
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本日の学習ポイントは残りあと一つ。黄土染めの『黄土発見の地』を見ること。『黄土発見の地』とは古代黄土(はにふ)染め復元の研究している金子 晋氏が、万葉歌の住吉を詠んだ歌に数多く出てくる『黄土(はにふ)』はどの辺りの土で染められた『黄土(はにふ)染め』であったのだろうかと、探し歩き帝塚山のこの地でやっと見つけたとのこと。この土で黄土染めは古代から甦ったように再現がなされたという、土にまつわる話の地を見ることが出来た。いまや、黄土発見の地も住宅地内のため、もうまもなく消えてしまいそうに周囲の開発が進んでいるが、傾斜地の斜面で何とか草むらが残っている状況を確認できた | |||||||||
これにて、2007.06.07の例会は全て終了。再び南海本線・岸の里玉出駅まで歩く。日差しのきつい一日でしたが、皆さんまだまだ元気が残っている様子でした。15:32分の電車に乗車。南海難波から近鉄難波で乗換えて、上本町を16:15乗車。桔梗が丘へ17:30到着でした。 皆さんお疲れさんでした。今日の例会も湯浅先生の事前の手回しのお世話に感謝しながら帰宅しました。ありがとうございました。来月は、伊勢・答志島です。初めてのコースになりますので楽しみにしています (写真:まだ元気が残る皆さん/岸の里玉出駅) |