万 葉 の 会 ・ 月 例 歩 き 録
例会日 2006年9月7日(木) 曇り
行 先 草津・野洲の道〜東海道・中山道
ルート 草津《草津宿街道交流館・草津宿本陣・中山道追分・天井川》
-南山田万葉歌碑-矢橋港跡-(さざなみ街道/昼食)
-御上神社-銅鐸博物館・弥生の森歴史公園-桜生史跡公園
【草津・野洲の道〜東海道・中山道】
 7月のバス見学例会「信楽の道」は欠席した。今月もバスでの見学会。前夜は激しい雨だったが、朝になって小雨模様の曇り空となりまずは安心とはいえ笠を持っての参加とした。桔梗が丘駅8:00出発、途中1番町の木野外科前で数人を乗せて走り出して数分、誰かが一人足りないというではないか。みんな周囲を見渡して空席の数から確かに足りないけど、誰だろうと確認。木野外科前で積み残しとわかり、バスは大きく迂回して再度Pick upに戻った。この日の天候から見て傘を持って行くべしと、バスの待ち時間に自宅に取りに帰ったが、バスは予定より少し早かったために乗場に戻るまでにバスは出てしまったということ。とんだハプニングの一日の始まりだった。
 阿山の道の駅で希望者の弁当を仕入れていよいよ学習ルートの最初のポイント草津宿へ進行開始。湯浅先生から沿道の壬申の乱に関連する説明その他の話を聞かせていただきながら、草津込田公園駐車場に10:00頃の到着。
 旧東海道に来るとまず最初に太田酒造の蔵屋敷が目の前に。「道灌」という名の酒で太田道灌の子孫に当る家柄とか。またそして、この酒屋は『草津政所』として江戸時代には草津問屋場を預かり、隠し目付けの役も勤めていて宿場の権限を握っていたので政所と呼ばれていたとのこと。
 江戸時代の名残を感じながら今は商店街になっている旧東海道を北進、1分足らずで最初の学習ポイント『草津宿街道交流館』へ。1階は街道宿場情報コーナーとなっていて、草津宿のことが詳しくわかるパソコンコーナーなどがある。また、2階は草津宿のまちなみ模型、旅籠屋の復元、旅の体験コーナーなどがある。
 興味の引く展示物がたくさんあったが、時間の関係でゆっくりと見聞することができなかったので別の機会に再度訪れるようにしたいと思う

 街道交流館を後にして100mほど北進すると、『草津宿本陣』へ。門構えの入口を入ると白州の庭を通って玄関に入る。私たちはその玄関の間で係員の説明を聞くことになった。大名や公家衆が宿泊したときの「関札」がずらりと展示している。この関札は宿泊者が持参してくるとのことだが、面白いことに大名は敬称なしだが公家は自身のことなのに敬称を付けて掲示するとのこと。公家は何かにつけ気位が高いということか。

草津政所跡・「道灌」の太田酒造/蔵屋敷


草津宿街道交流館・1階
また、宿泊においては食事は大名側で準備して持ち込んで、お抱えの台所役人が調理していた。玄関の間から畳み廊下を通って最初の部屋に宿帳の展示があった。浅野内匠頭、皇女和宮などの記帳が見られる中、新撰組土方歳三の名もあった。本来は新撰組のような下級武士は宿泊できないのだが、江戸末期には身分制度の厳しさが薄れてきたのと、時の実力者の権威には屈したのだろうとの説明だった。
奥座敷に進むと上段の間がある。よく見る通常の上段の間と違って上段の間に更に畳を重ねている。お殿さんは夜はその重ねた畳の上で寝ることになるのだが、それは床下からの刀剣による暗殺に備えたものということ。上段の間の隣の奥にはお殿さん用の雪隠がある。大便用小便用共、漆塗りのもの。庭をはさんだ右奥には湯殿。畳敷きの前室があってその向うが板張り8畳ほどの風呂場。湯は沸かさないで運び湯となっているが、冬にはこんな広さでさぞかし寒かっただろうなと想像した。
その他、見るもの聞くもの江戸時代のことを思い巡らす興味深いものがいっぱいの史跡だった。

草津宿本陣外観

玄関の間で本陣内の説明を聞く
 草津宿本陣を出たすぐ北側は『天井川』といわれる草津川に突き当たる。そして、そこが『追分』になっている。天井川は名の通り川底が周囲の土地より高い川のことで、川底は民家の屋根より高く堤防の上までは10m程ありそうだ。天井川は山の木を燃料とした伐採のやりすぎがあって、花崗岩のもろい土質の山の土が流出し川底を押し上げつづけ、堤防をかさ上げせざるを得なくなった結果だった。このようになったのは江戸時代中頃らしいが、旅人は中山道はこの堤防の壁を越えて進み、東海道は右手に折れていくことになる。明治19年天井川を抜けるトンネルが出来上り中山道の旅人の不便は解消された。
天井川の堤防と川の下のトンネル道路
左下の小さいやぐらは高札場
天井川を堤防から見た 追分道標
(左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち)
 天井川のすぐ脇、追分道標の対面に『高札場』がある。江戸時代に庶民に法令の周知徹底を図るために町の辻、街道の追分、渡し場などに、掟書きや禁制を書いて掲示したのが高札場ということ。

 追分から一旦駐車場に戻ってバスに乗車。数分で山田公民館へ。そこの前庭で『万葉歌碑』を見学して、いつものように全員で朗詠と記念撮影をした。
      『月草に 衣そ染むる 君がため 斑の衣 いらむと思いて』

万葉歌碑

歌碑をバックに記念撮影(5班)
 
 再びバスの乗って今度は『矢橋港跡』へ。 矢橋港は、江戸時代、東海道で京へのぼるとき、瀬田の唐橋を経由するよりも、ここから船で大津へ向かうほうが近道になるので旅人に重宝がらた。また、その賑わいが近江八景の一つ、「矢橋の帰帆」として浮世絵にも描かれている。
明治以降は、鉄道の開通によりその役目を終え廃港となり忘れられていった。
最近の発掘調査で、江戸時代に使用されていた3本の石積み突堤の船着場が現れ往時の港の面影が再現された。また、弘化3(1846)年の刻銘のある「常夜燈」が現存していて、ともに保存されている

写真(左):矢橋港跡・石積み船着場突堤
   (右):矢橋港・常夜灯
 バス乗って矢橋帰帆島を通り抜けさざなみ街道沿いの湖畔公園で昼食後、午後の学習ポイントの野洲へ進んだ。進行方向には近江富士の『三上山』が美しい姿を見せてくれる。国道8号線の野洲大橋を渡るとすぐが『御上神社』。駐車場からは南参道からの参拝になる。神社の由緒には次のように書かれている
 御神体 三上山
 御祭神 天之御影神(天照大神の孫神)
天之御影神が2200年余前に三上山に降臨になり以来、三上山を神体山として鎮祭している。忌火神、金工鍛治神、産業神、開運魔除け神として信仰が厚い。また、三上山の山麓からは24個の銅鐸が発掘されている
御上神社・西参道 御上神社・南参道 御上神社・楼門

三上山(野洲川南岸より三上山南面遠望)

三上山(南参道より三上山西面を拝む)

御上神社・拝殿(左)と本殿(奥)
 
 御上神社より北進して三上山の北側にある『銅鐸博物館』を学習。館内講堂で係員から「大岩山銅鐸発掘」と「ずいき祭」等についての説明を聞いて、展示品を見学した。
明治14年(1881)に14個、昭和37年(1962)に10個の計24個が出土した銅鐸が展示していた。本物かなと思ってよく見るとほとんどはレプリカだった。滋賀県の所有物になっていないようなのが残念な感じだ。また、明治での発見当事の村役の届出書に興味を覚えた。帰ってきてから詳しく知りたいと思って、野洲市観光物産協会のWebsiteにアクセスしてみると「銅鐸発見物語」というのが見つかった。以下その抜粋要約を記す
・明治14年(1881)二人の少年が大岩山に遊びに行き、尾根の斜面で銅器を見つけ3個を掘り出した
・村では大騒ぎとなり翌日発掘を行い11個の銅器を掘り出し、合わせて14個の発掘をした

・銅器は唐金古器物として警察に運び、戸長(区長)と地主、発見者が発見の顛末文書を県や国に届けた
・銅器は銅鐸とわかり、現在の東京国立博物館へ運ばれ一番大きいものと水鳥の絵柄の2個が博物館で
 買取り、残る12個は発見者と土地所有者に払い下げた。その後、大半の銅鐸が手放され行方不明となる

・大正・昭和・戦後に所在調査の結果、海外流出を含め10個は確認できたが、現在も2個は不明のまま
・昭和37年(1962)新幹線建設の土砂採掘工事現場となった大岩山から、再び10個の銅鐸を発見した
・当初6個が掘り出され、工事作業員が古物商に売却。たまたま巡回の警察官が不審に感じ保存を
 指示し、その後、京大で鑑定して銅鐸であると判定した           日本最大の銅鐸
【本項の詳細は、野洲市観光物産協会site「銅鐸発見物語」でご覧ください】
 銅鐸博物館の外には弥生の集落を復元した『弥生の森歴史公園』がある。公園内ではしばし弥生時代にタイムスリップして、かの時代の生活を空想してみた。

 銅鐸博物館の次は今月の最終学習ポイント、『桜生史跡公園』。国の史跡指定の大岩山古墳群の甲山古墳・円山古墳・天王山古墳を遊歩道で結び、史跡公園として整備されている。甲山古墳は6世紀中頃の円墳で、日本最古の「金糸」が発見された。円山古墳は6世紀初頭の円墳で、熊本県宇土半島の凝灰岩の家形石棺が納められている。

弥生の森歴史公園
丸山古墳では石室の前に立つとセンサーが働いて音声説明が始まると聞いていたが、私達が行ったときにはどういうわけか説明の音声は出てこなかった。
桜生史跡館には古墳内部を模擬的に体験できる部屋があり古墳の内部構造がよくわかるような工夫をしていたのはチョット面白い。
館内事務所の二人の係員がちょうど土器復元作業をしておられたので、お願いして写真を撮らせてもらったので掲載する。ありがとうございました。      写真(右):桜生史跡館・土器復元作業
写真(左):音声説明のあるという丸山古墳・石室と石棺
 これでこの日の月例学習会は全て終了。バスは帰路についた。今回初めてバス学習会に参加したが、湯浅先生には観光ガイドと添乗員、それに旅行幹事の役割までもしていただいている状態だった。バスの走行中は沿道の随所でその地に応じた歴史的な関連説明をしていただけるし、加えてその知識の深さには感服そのものである。また、何かにつけてきめ細かくお世話いただいていることには心底感謝に絶えない。いつも思っていることだが、湯浅先生の博識に敬服の念を持っているのは私だけではないと思う。本当にありがとうございます。