万 葉 の 会 ・ 月 例 歩 き 録
例会日 2006年6月1日(木) 晴れ
行 先 河口の野 〜聖武東遊と初瀬街道〜
ルート 聖武行宮跡・医王寺-瀬古公民館(高田寺)-(白山町中央公園/昼食)-白山郷土資料館-(初瀬街道)-成願寺-伝紀貫之墓
【河口の野 〜聖武東遊と初瀬街道〜】
 この日は朝から快晴。暑くなる一日を覚悟で出発。いつもの通り桔梗が丘駅集合、人員点呼を受けて8:31発急行に乗車。川合高岡駅9:19着、駅前で当日の行程説明のあとJR名松線一志駅まで数分徒歩。JR線は一志から関ノ宮まで乗車、到着は10:00。
本日の例会コースをウオーキング開始。歩き始めてすぐ気が付いたのは、この方面のゴルフ場へ向かう何回となく来ている通り道だった。
 本日の最初の学習ポイントは、聖武行宮跡。関ノ宮駅から歩き始めてすぐ、河口頓宮跡に到着。2mを超える大きさの『聖武天皇関宮跡』の石碑と、大伴家持の万葉歌碑が木立の中にあった。
(白山町教育員会の掲示板には次のようなことが記されていた)
 天平12年(740)聖武天皇が藤原広嗣の乱を避け都を離れ、伊勢の国に向かい、河口の頓宮に10日間滞在されたことが続日本紀にみえる。都から東へ山を越えると軍事的にも安全であり、しかも交通の要所であった河口の関は長期滞在の設備も整い易かったので、ここを頓宮と定めたと考えられる。

天皇に随行してきた大伴家持は、
   『河口の野辺に いほりて夜の暦れば 妹が手本し 念ほゆるかも』
と詠み、これが万葉集に残している。全員で揃って朗詠。

(聖武天皇関宮跡石碑

(大伴家持万葉歌碑
 次の学習ポイントは、医王寺。このお寺は頓宮跡のすぐ近くなので、河口の関とのかかわりがあるような感触を持った。
お寺では私たちの拝観を歓迎していただき、住職の説明とお茶の接待を受けることになった
            (湯浅先生の事前の手配に感謝)
 
拝観を終えて、医王寺の境内から南の方を見ると矢頭山(731m)が望めた。役の行者によって開基された山で「ある日、二本の白羽の矢が飛んできて峰を越えて里の落ちた」といわれているとのこと。そこから矢頭山の名が付いたということらしい。
医王寺を後にして来た道を少し戻ると旧初瀬街道の
・左上:医王寺本堂
・右上:住職の説明
・左  :矢頭山
分かれ道にある「太一」と大きな字で刻んだ常夜灯がある。写真の右奥からの道と左方面と右方面の分かれ道になっている。
右奥へが伊勢方面、左へが津方面、右へが大和に通じていたと思う。江戸時代では伊勢参りの旅人には大いに頼りななる明かりを提供していたのだろうと思う。
 この次の学習ポイントの瀬古集会所までは、しばらく川口の田園

(太一常夜灯)

(川口の田園地帯を歩く日傘の花)
地帯を歩いた。遥かに青山高原を背にして田植えの終わった田圃は水をいっぱいたたえて緑豊かな田園風景のなか、陽射しをしのぐご婦人方の色とりどり日傘の花が一層のどかな風景をかもし出していた。
瀬古集会所でも地元の篤志家の代表の方の説明を受けることになった。
(瀬古集会所/高田寺の説明の要旨)
この場所は元は「高田寺」があり1565年に戦火によって焼失したが、何らかの形で明治まで細々と維持を続けてきたとのことです。しかし、明治の初めに廃寺となったということでした。
お寺に安置してるのは本尊の「薬師如来座像(鎌倉初期)」、「十一面観音立像(平安初期)」と「水晶製舎利塔」及び「陶製壷」でいずれもが国指定重要文化財、県指定有形文化財になっている。
説明の中で興味を引いたのは、十一面観音は江戸時代にこの像を厨子に収めようということになり、厨子を作ったものの収まりきらなくて観音さんの背中を削ってしまったとのことでした。
地元では、これらの文化財を保存するためには国や県からお金を出してもらうには地区の住民の集いの場という名目でないと適わないので、集会所の名目で1992年(平成4)再建がなったとのこと。

集会所ではあるが、実はお寺。なんとも変な感覚であるが、集会所の中は正面に本尊様が安置されていてお寺の本堂の形態になっていた。地元の方々の保存の苦心の現われがよくわかる。
そして前述の観音さんの背中を削った話だが、江戸時代の人々結構おおらかに気楽に仏像と接していたのだなと感じた。というのは、この時代は『もののけのたたり』とか『神仏への畏れ』は今の私たちには想像できないほど強烈なものだったと思っていたのに、案外自分たちの都合で物事を行っていたように感じられた。今なら、厨子の大きさを間違えたのなら、畏れ多くも仏像を削ることなど考えが及ばないで、厨子を作り直してしまうはず。でも、この時代の人は貧しさがそうさせたともいえるが、それより作り直しのお金がもったいないということだったのだろう。この事例にたがわず、昔から寺社の移転等でのご都合主義はよく聞かれる話だが。

(瀬古集会所本堂で説明を聞く)
  

(薬師如来坐像・国重文)

(十一面観音立像・県文化財)
 瀬古集会所(高田寺)をあとにして再び田園地帯を歩いて雲出川に出た。そこにもまた常夜灯があり、その横の雲出川にかかる橋を渡ってそこから少しきつい坂道を登って行ったところが「首塚大明神」、そしてその周辺が白山中央公園。ここで昼食をとる。
昼食のあとは白山郷土資料館に向かった。バス組み数名と別れて再びアップダウンのある道を進んだ。歩いている途中、自転車に乗った地元の中学生の集団が皆んな元気よく口々に“こんにちは”と声をかけてくれる。こちらもそれに応えて大声で何度も返事をするというシーンがあった。それが、郷土資料館へ到着すると彼らとまた出会うことになった。
話によると、この中学校は課外学習の一環として郷土の歴史勉強をしているとのこと。なんと素晴らしい学校だろうと賞賛したい気持ちになった。このようなことがらが子供の時からのかけがえのない情操をはぐくみながら成長していくという姿を改めて教えられた思いだった。そういうことが大きな声の“こんにちは”だったのだ。
郷土資料館では、古くから大和と伊勢を結ぶ交通の要衝として栄えた人や物の往来に関する展示物や、昔の民具、農具も懐かしい気持ちで見学した。
 次は成願寺。国道165号を西へ歩くと、今回三つ目の常夜灯を見ることになった。国道は旧初瀬街道と随所で入り組んだように重なった状態になっていて、常夜灯は国道脇で車の騒音と排気ガスに耐えながら一生懸命に昔を残していた。旧初瀬街道の痕跡を確かめながら、成願寺へ向かった。成願寺でも本堂で住職が私たちを迎えて説明をしていただくことになった。
(成願寺住職の説明要旨)
まず最初に住職の話は万葉の会を迎えるに当って名張のどのような会であるかを詮索したこと、その次がこの寺の所蔵物は「拝観」する気持ちであってほしい。「見る」という不心得のものは寺に入れることまかりならぬ。その代わり拝観の気持ちであるなら歩けばつまづくほどの宝物があるので納得するまで拝観していただいてよいと言う。ということから拝観する気持ちについての説教があってから、案内説明が始まった(歴史のあるお寺で、かつ大切な文化財を数多く所蔵しているからこそこのような高い気位の態度が必要なのだろうと感じた)。中でも涅槃図は国内の数あるお寺にあるものの内、5本の指に入る価値ある代物とのこと。

説明の通り、お寺の宝物は立派なものであった。私たちが拝観できた主なものは、「絹本着色佛涅槃図」「木造阿弥陀如来倚像(腰かけの阿弥陀如来)」【いずれも重要文化財】。成願寺は1494年伊勢の国小倭の城主新長門守の発願で真盛上人(4月例会で上人誕生地の誕生寺を学習した)の開基になっている。
本堂で涅槃図を拝観して、一旦本堂を出て横手にお祀りしている腰かけの阿弥陀さんを拝みに行くと、菊のご紋のある「勅使門」くぐることになる。その昔、天皇勅使も迎えていたということであり、やはり由緒あるお寺という印象を深めた。

上:成願寺御本尊・真盛上人   

    右:絹本着色佛涅槃図【重文】

下:宝珠丸(真盛上人幼形像)  

    上:腰かけ阿弥陀如来【重文】


左下:成願寺山門
    下:例会記念撮影(5・6班)
 成願寺本堂を出るとき、三たび、中学生集団に会った。彼らもまたこのお寺を訪れたのだ。
この日はなんともはや子供たちと縁の深いこと。整然とお行儀よく本堂に昇殿する姿もまたほほえましく可愛い。
 成願寺からは榊原温泉口駅へ帰途につくことになるが、途中で伝紀貫之墓を見学した。農協の裏手にこじんまりと保存されている。何故この地に紀貫之がと思うのだが、真盛上人が紀貫之の末裔ということから、そのご先祖のお祀りということでお墓が建てられたのだろうか。
 今回もまたであるが、湯浅先生には大変なお骨折りをいただいている。訪ねるところが皆それなりに温かく迎え入れていただき、かつ、丁寧な説明までがあるのは、事前の折衝と調整がきめ細かくしていただいているからこそと思う。本当に感謝に絶えない。
 榊原温泉口14:30乗車、桔梗が丘15:00頃帰着。
皆さんお疲れさんでした。暑い日でしたが楽しく有意義に一日を過しました。

(伝紀貫之墓)