万 葉 の 会 ・ 月 例 歩 き 録 | |
例会日 | 2006年4月6日(木) 曇り |
行 先 | 初瀬街道 〜仰木から二本木〜 |
ルート | 真盛上人誕生地-(中勢鉄道跡)-笠着地蔵-亀が広桜並木-(中勢鉄道跡)-(初瀬街道)-二本木宿場 |
【初瀬街道 〜仰木から二本木〜】 万葉の会に入会して初めての月例会に参加した。天候が心配な前夜だったが、当日は曇り空でまあまあというところで一安心。桔梗が丘駅8:20集合、団体切符を買うため参加者整列して人員点呼をしてもらった。急行電車に乗車、榊原温泉口で普通電車に乗り換えて伊勢石橋下車。 石橋駅前でトイレタイムと当日のルート説明のあと学習ルートをウオーキング開始。雲出川を左手に見ながら中勢鉄道跡をなんとなく確認できる田園地帯を進み、最初の目的地「真盛上人誕生地・天台真盛宗 産湯山 誕生寺」に到着。講師の湯浅先生から説明を受ける。 『真盛上人は嘉吉3年(1443)正月28日、勢州一志郡仰木郷生まれ。父は小泉藤能・紀貫之14世の末裔で伊勢国司北畠氏に仕えた。明治14年、廃寺となっていた華香寺が再興されて誕生寺と改めた。昭和13年(1938)県指定史跡となり「真盛上人誕生地」の碑が建てられた。境内の産湯の井戸は上人誕生の際にこの水が使われたとのこと。上人は7歳のときから寺に入り、14歳で剃髪して真盛と名乗るようになり、19歳から20年間、比叡山で厳しい修行に耐え、天台宗の奥義を究め権大僧都という地位まで登っていて、天台真盛宗の開祖となっている。民百姓から上は将軍そして天皇に至るまで多くの人に慕われ、天皇から上人を名乗ることを許されたという。明応4年(1495)、53歳で伊賀の国、西連寺で亡くなってその地に葬られた』 再びしばらく雲出川沿いの道を歩き、笠着地蔵へ。 掲示されている由来書を要約すると 『真盛上人は幼名を宝珠丸といい、7歳のとき出家に際して父母との別離を哀しみむずかったので、父、藤能は一時の方便で仰木河に流せと命じた。侍者はそれを真に受け笠に入れて権現ヶ渕に流した。すると、不思議にも河上に逆さに流れてこの淵に着いた。そして、祥雲にわかに起こり宝珠丸を包んで岩の上に助け上げたと伝わる』 この巨岩に刻まれた地蔵は、安政の大地震で道路脇から河に逆さに転落したとのこと。よく見ると岩の左に見える二体の地藏さんは倒立しているが、右の方に刻まれたのはちゃんと正立している。どうしてなんだろうと疑問を感じるが、恐らく後の世に誰かがここで刻んだのだろうと推測する。 笠着地蔵の横には大きな多羅葉の木が立っていた。落ちている葉を拾って帰って、字を書いてみた。書いた字は写真の通りくっきりと浮き出しているのが分かる。 地蔵さんを後にしてまた、雲出川沿いを歩くとすぐ先に川を横断して鯉のぼりが泳いでいるのが見えてきた。その向うには青山高原の風力発電の風車も見える。まもなくすると、亀が広の見事な桜並木に到着。川の堤で花見をしながらの昼食をゆっくりした時間で過した。 昼からの出発のときこの地にちなんだ万葉集の一首をみんなで詠う。 『河の上ゆつ盤村に草生さず 常にもがな常処女にて吹黄刀自』 次は本日最後の学習ポイントの二本木宿。途中、中勢鉄道駅跡とか陸橋跡を見ながら、また、初瀬街道の名残も確かめながら、家並みに面影が残る街道宿場町の二本木宿に着いた。時代によっての賑わいの盛衰はあったが、江戸中期から明治初期には最も賑わったとされる。参加者のたくさんの方は、昔の店舗の名残ある丁子屋で評判の味噌を買われました。その後、天保四年の刻みのある「二本木常夜灯」の見学と記念撮影をして本日の学習は終了。 全コース6.5kmの行程だった。 大三駅15:13乗車。少し疲れたのか電車の中ではしばしまどろんで桔梗が丘に帰着。 楽しい1日でした。 |